「ヌサンタラの馬車(9)」(2021年12月09日) ウォノソボでは、ドカルの運送稼業を行っているオーナーはドカル運送許可書を所有し、 また御者はドカル運転免許証を取得している。ウォノソボのドカル御者組合長は、198 0年代に御者の人数は6百人だったと語る。しかし2010年ごろには年々大勢が転業す るようになり、2009年301人、2010年267人、2011年230人、201 2年200人と減少の一途をたどった。 ウォノソボ中央市場の一角で駐車番をしているロヒムさんは、ドカルの御者から転業した ひとりだ。かれが御者をしていたころ、5百万ルピア出せば特別製のドカルと馬がセット で買えた。そして一年間で投資高が回収できた。しかし昨今は3〜4年かけなければ投資 回収はできない、とかれは言う。だから先行きを見越して御者をやめた。 1980年代がウォノソボのドカルにとっての黄金時代だった。そのころアンコッはまだ 走っていなかったのだ。住民はだれもがドカルを使った。ドカルを持って運行させれば、 毎日十分な日銭が手に入った。町の外の村々にすら、ドカルがあった。御者組合長経験者 のスカルディさんは、自分の出身カンプンに25台もドカルがあったと言う。ドカル事業 を行っている家はたいていドカルをニ三台持っていた。スカルディさんもそのひとりであ り、ドカルのおかげで子供たちをみんな高校までやれたとかれは懐古している。 ドカルの黄金時代、供給過多を緩和させるためにウォノソボ行政当局は営業時間をシフト 制にした。つまり日中走るドカルと夜間走るドカルを別けたのである。日中営業するドカ ルは朝から夕方まで、夜間営業ドカルは夕方から夜中までとし、夜間ドカルは車輪を白塗 りにして燈火と鐘を装備した。 そんな時代は過ぎ去ってしまった。ドカルを生き延びさせるためにドカルの御者組合とア ンコッが協議して、町中にアンコッ自粛区域が設けられた。その域内では、アンコッの車 掌は路上にいるひとをアンコッに乗るよう誘導してはならないことになっている。 ウォノソボのドカルも観光馬車への転身を迫られている。幸運なことに、ウォノソボは観 光地ディエン高原を抱えているのだ。県行政は休日や祝祭日あるいは何らかのイベントが ディエン高原で催されるとき、一定数のドカルを高原へ送り出している。 西暦7〜8世紀ごろ古代ジャワ王朝時代の聖地であったディエン高原を、重厚なチャンデ ィ群を眺めながら馬車で走るロマンの旅はきっと素晴らしいにちがいあるまい。 [bendi] KBBIの語義はkereta beroda dua yang ditarik oleh kuda; dokarとなっており、画 像を検索すると一頭立てで二輪のものが多いが、四輪のものも見られる。二輪のものはた いてい乗客が左右で向かい合わせに座るタイプだが、四輪のものは高い位置で前を向いて 座る形式になっている。 四輪の画像はミナンカバウのベンディの中に出て来たもので、ミナハサのベンディの中に 四輪のものは見つからなかった。ベンディはミナンカバウとミナハサで知名度が高い。つ まりそれらの地方で馬車を指して使われる語彙であるとも言えるだろう。 西スマトラのミナンカバウの地で、ベンディは植民地時代から重要な交通機関になってい た。自家用としてベンディを持っていたのは裕福な商人階層や行政高官たちであり、一般 庶民は公共運送稼業を行う者かその利用者のどちらかという立場になっていた。 元々ミナンカバウにあった馬車はbugiと呼ばれる二輪馬車で屋根のないものであり、乗客 はふたりしか乗れなかった。最初は個人が自家用として持つものだったようだ。つまり上 流層の自家用として始まったものらしい。だからブギを所有することはステータスシンボ ルになっていた。[ 続く ]