「ジャワ島の料理(28)」(2021年12月13日)

プチュレレはラモガンLamonganが有名だ。ラモガンの名前を冠した料理には、プチュレレ
ラモガンの他に、かの有名なソトラモガンもある。東ジャワ州ラモガン県は州都スラバヤ
から西に73キロ離れた、海岸線を持つ県だ。県の中央部を国道一号線が通っているにも
かかわらず、工業が勃興しなかった典型的な農業県だったために州内でも貧困県のひとつ
に数えられている。

わたしが初めてバリ島に向かって、ジャカルタから自動車を運転してジャワ島横断旅行を
行ったとき、ラモガンの町を通り抜けたように思うのだが、まったく印象に残っていない。
多分日没後の時間帯だったのだろうし、ともかくスラバヤ目指してまっしぐらに走ってい
たのだから、小さな町を余裕を持って眺める気分ではなかったのが最大の原因だろう。

ただし、ひょっとしたら海岸沿いの道路を走ったのかもしれない。今のわたしの記憶の中
では、どちらを通ったのか確信を持って言うことができない。


スマランからやってきた道路はトゥバンの町で分岐し、ひとつは海岸沿いの道路をグルシ
ッGesikに向かい、もうひとつはラモガンの町を経由してグルシッに向かう。海岸沿いの
道路は1808年にダンデルスが作った大郵便道路であり、現在のパントゥラPantura
(ジャワ島北岸)街道の一部をなしている。ところがラモガンの町を通る道路が現在は国
道一号線になっているのである。

北岸街道の全線(多分)をチルボンからスラバヤまで走ったのはその最初の一回だけだっ
た。スマランを出たあと、ドゥマッ〜クドゥス〜パティの道路が随所で工事中で、大渋滞
の中をノロノロと通り抜けたことから大いにフラストレーションが高まり、二回目からは
スマランから南に下ってウガランUngaran〜サラティガ〜ソロ〜ガウィを通る中ルートと
呼ばれる道を走ることにし、それが大いに正解だったためにスラバヤを通過することは二
度となくなった。

ダンデルスが作った大郵便道路はバタヴィアを出てからバイテンゾルフ〜バンドンに向か
い、その後チルボンに向けて北上して行く。現在のパントゥラ、そして国道一号線とはル
ートが異なっているのだ。チルボンからスマラン経由でトゥバンまではその三つが一致し
ているものの、トゥバン〜グルシッ間は大郵便道路とパントゥラが一致し、国道一号線は
別になっている。わたしは昔、それらの三つの全線がすべて一致していると思っていた。
ところが、大郵便道路は南往き大通りに概略でオーバーラップしていることを知ったとき、
目からウロコが落ちた。


ラモガン県ババッ郡パティハン村は県内でも貧困地域の印象が濃い村だった。ババッ郡と
いうのは、あの素朴な焼き菓子wingko babatの名前に使われている地名だ。ウィンコババ
ッはスマラン名物になっているが、由緒はラモガンだったと説明されている。

数十年前、パティハン村は貧困村の典型のような姿をしており、石造りの家屋など見当た
らず、木や竹網壁の家ばかりが並んでいた。村へ入る道路は狭く、そして雨季は泥だらけ
になり、歩くのに難渋し、転ぶ人がたくさんいた。それが十数年くらい前から、柱の目立
つ石造りの大きな家が並ぶようになり、村に入る道路は3.5メートルのセメント舗装が
なされ、村民が所有する四輪二輪の最新モデル自家用車がそこを走っている。

そんな変化はパティハン村だけでなく、ラモガン県スカラン郡シマン村も同様だ。狭い路
地にまで石造りの二階建ての家がひしめいている。何がそのような変化を起こさせたのか?
ソトラモガンとプチュレレララモガンが貧困村の姿を変えてしまったのである。


ラモガンで生まれ育ったひとびとにとって、家庭が裕福であろうが貧困であろうが、ソト
もプチュレレも舌になじみきっている。そんなひとびとが他州に出稼ぎに出て、ソトやプ
チュレレのワルンを開業するようになった。最初は道端のテントワルンから始めて、はや
るようになると固定した食堂に移行するというお定まりの食べ物ワルン成功譚がたいてい
共通項になっている。しかも成功すると故郷へ錦を飾るために戻って来て、水田や土地を
買い、住居を建て直し、自動車を買い、メッカ巡礼を果たすのである。[ 続く ]