「ヌサンタラの馬車(11)」(2021年12月13日)

北スラウェシのミナハサ地方にもベンディがいる。植民地時代から運送機関として牛や馬
に引かせる車がたくさん道路を歩いていた。農園の収穫物を運ぶ牛車はroda sapiと呼ば
れた。rodaはgerobakの意味で使われている。

人間を運ぶのは馬車であり、ジャワのデルマンのような使い方がなされていた。マナドか
らミナハサのトモホン、トンダノ、アイルマディディなどの町へ行く場合はたいていベン
ディが使われた。町と町を結ぶ街道を乗合自動車が走るようになったのは1910年ごろ
からで、ベンディの長距離運送の仕事はそれに取って代わられたものの、町中には依然と
してベンディがあふれていて、需要の減少は少しも起こらなかった。

今ではベンディの数もだいぶ減少したが、ミナハサのトンダノ、ラゴワン、カワンコアン、
トモホン、アムランなどには依然としてベンディの姿がある。中でもトンダノが特にベン
ディの多い町になっている。

[andong] 
KBBIにはこう記されている。kereta kuda sewaan seperti dokar atau sado beroda 
empat (di Yogyakarta dan Surakarta)
画像検索では一頭の馬が引く屋根付き四輪馬車がほとんどで、たいていヨグヤカルタやソ
ロで撮影された画像になっている。

他地方とは異なって、ヨグヤ・ソロで馬車が四輪車体の形を取ったのは、多分に王宮の威
厳に関わっていたためのような気がする。ヨーロッパの伝統催事でやんごとなきひとびと
が乗る馬車は四輪と相場が決まっているように思われるのだが、どうだろうか?四輪馬車
の威厳に慣れ親しんできたひとびとには、自分たちが持つ馬車の様式がすでにそのイメー
ジで形成されていたのではあるまいか。


ヨグヤカルタ王宮の中に、ハムンクブウォノ7世がオープンした馬車博物館がある。そこ
に集められている23台の馬車は2百年以上前から王宮が使ってきたものであり、コレク
ションは無蓋の二輪車体、無蓋の四輪車体、有蓋の四輪車体の三種類になっている。

その中のもっとも古いものは1740年代にオランダで作られた、屋根と壁に包まれた四
輪馬車で、ヤコブ・モッスル第28代VOC総督からハムンクブウォノ1世に贈られたも
のだ。王宮の他の用具類と同様この馬車にも名前が付けられ、カンジュン・ニャイ・ジマ
ッという名称で擬人化された。おとぎの国から来たようなこの馬車の姿はkereta kuda 
Kanjeng Nyai Jimatで画像検索すれば見ることができる。

それらの馬車はスルタンや王子たち王の一族だけが使った。ハムンクブウォノ3世の息子
で、皇太子に位置付けられていたディポヌゴロ王子が使った馬車もある。


最初は王家のひとびとだけに限られていた四輪馬車も、ハムンクブウォノ7世のときに貴
族や宮廷の高官たちに持つことが許されるようになった。それまで四輪馬車はステータス
シンボルとされ、王族以外は持つことが許されなかったのである。プリアイ階層に属す行
政官僚ウドノWedanaレベルまで四輪馬車を持てる身分が下がって来た。その当時、一般市
民が使ってよい車は牛車もしくは二輪のドカルだけであり、四輪馬車に庶民が乗るような
畏れ多い行為をしようという人間はいなかったということのようだ。

8世の時代になった1920年代に、一般市民のだれでも四輪馬車を持って良いことにな
り、それ以来、ヨグヤカルタの町に馬車が増えて行った。オランダ資本の馬車製造会社バ
レンシュBarendschがスマランに、またヨハップYo Hapがヨグヤに開業し、ヨグヤ・ソロ
市場向けに作られる四輪馬車がアンドンと呼ばれた。プリブミも生産を試みたが、容易で
はなかったようだ。プリブミが作ったものも高いコストになり、高価なアンドンは生産者
の社会的地位をも高める結果をもたらした。[ 続く ]