「ヌサンタラの馬車(12)」(2021年12月14日)

アンドンという名称についてハムンクブウォノ10世の異母弟であるGBPHユダニンラ氏は、
最初にアンドンと呼ばれていたものは二輪の短い車体であり、乗客はひとりしか乗れなか
ったと語っている。それが四輪馬車に駆逐され、一般的になった四輪馬車がアンドンとい
う名称で呼ばれるようになってしまったのがきっとこの言葉の歴史なのだろう。

だからややこしいことに、アンドンという言葉はヨグヤ・ソロ界隈で見られる特定デザイ
ンの四輪車体馬車を指しているという理解を持っているひとと、ヨグヤ界隈における馬車
の包括呼称であるという理解をしているひとが世の中に共存しており、新聞にマグランの
街道を進む西洋人観光客を乗せた5台の二輪馬車隊の写真がアンドンという言葉で掲載さ
れると、たちどころに「それはアンドンではない」という読者からの投書が編集部に舞い
込んでくるようなことが起こっている。

ヨグヤでアンドンと呼ばれている四輪車体は前輪が直径65センチ、後輪が直径95セン
チで、鉄製のシャーシと6本の柱があり、柱がビニール製の屋根を支える構造をしている。

左右の中柱に設置される灯油ランプはまるで骨とう品だが、バントゥル県バグンタパンに
制作者がいて、ヨグヤ・ジャカルタ・バンドン・スマラン・シドアルジョ・バリから入る
注文のために日常的に生産活動を行っている。一対のランプを作るのに10日かかるそう
だ。


アンドン自由化にともなって、ヨグヤカルタの町では、アンドンを10台くらい所有して
客の運送や商業貨物の運搬を行うタクシー業者が続々と名乗りを上げた。それが大いに利
用されたために、事業主はプリアイの端くれに連なる社会ステータスを手に入れることが
できた。

共和国独立後から1980年代ごろまでが、ヨグヤにおける大衆交通機関としてのアンド
ンの黄金時代だった。ありとあらゆる経済活動がその足をアンドンに頼った。移動する距
離がどれほど遠かろうが、引馬の力ひとつが頼みの綱だった。

そのころ、妊婦が出産のために産院へ行くのもアンドンが使われた。バントゥル県で50
年以上アンドン御者を務めたカシさんは自分のアンドンを指さして、この上で赤ちゃんが
三人産まれたと語る。
「1980年ごろ、身重の近所の奥さんが産気づいたので産院へ向かったところ、到着が
待ちきれずにお産が始まりましてね。アンドンを止めた場所の周辺にいたひとびとがお産
ドゥクンを呼んで来てくれて、その座席の上で無事に赤ちゃんが生まれました。あのとき
のことはいまだにはっきり覚えてますよ。おまけに似たようなことがもう二度起こりまし
た。そんなに上等なものじゃないが、このアンドンは大きい功績を残してくれましたよ。
1960年代ごろはマリオボロ通りがまだ一方通行で、あのころ乗合自動車なんかありま
せんから、みんなアンドンに乗りました。ところが外国製の四輪二輪の自動車が入って来
るようになって、アンドンを使うひとが減りました。昔は客がアンドンを探したのに、客
がどんどん減って、しまいにはこっちが客を探さないといけなくなりました。」


ここでも、馬車は自動車にその座を奪われてしまったのである。ジャワ語クロンチョン歌
謡にKusir Andongという歌がある。「昔々、アンドン御者の家は御殿だった。今では長屋
の一角がかれの家だ。」という歌詞が物語る通り、黄金時代を通り越して急坂を転げ落ち
てしまったアンドン御者の境遇が唄われている。

中でもプリアイ階層に四輪馬車が解禁されたとき、大金持ちのプリアイ層に雇われたアン
ドン御者はさぞかし高給を楽しんだにちがいあるまい。一般庶民と格違いの御殿を一介の
アンドン御者が持つことができたのも、プリアイのお抱え御者としての社会的地位の高さ
を物語っているように思える。[ 続く ]