「ジャワ島の料理(30)」(2021年12月15日) 言うまでもなく、スラバヤ市内にラウォン食堂はたくさんあり、中にはRawon Kalkulator という変わった名前で呼ばれている老舗もあって、そこは市内で人気の上位を競っている。 正式屋号はWarung Sedap Malamなのだが、客がお勘定を頼むとレジ係が暗算で金額を一瞬 のうちに口に出すことからまるで人間電卓だという評判を呼び、このワルンの愛称がその 名前で定着したそうだ。 ところが最高のラウォンは、スラバヤからずっと南のパスルアンとプロボリンゴの県境に あるTongas郡のワルンで作られていたという声もある。1942年12月12日にカルヨ ディルジョとマルニの夫婦がプロボリンゴ県ト~ガス郡の街道沿いにDepot Rawon Nguling を開業した。その店のラウォンが最高だったとインドネシア語記事は語っている。 ~グリンはパスルアン側の県境の郡であり、ト~ガス郡と境界線をはさんで対面している。 地図を調べると、現在のデポラウォン~グリンはト~ガス郡にあるので記事の解説は間違い ないと思うが、どうして屋号に~グリンの地名を付けたのだろうか? パスルアンからプロボリンゴまでの平坦な道路が国道一号線であり、ダンデルスの大郵便 道路である。その区間の道路沿いにあるワルンの多くが屋号にDepotを冠していて、初め て通ったときに面白く感じたことを覚えている。十数年前にその辺りのいずれかのワルン でわたしはラウォンを食べたことがあるのだが、どの店で食べたのかは覚えていない。 ト~ガスと言えば、ブロモ山へ登って行く道路がト~ガス郡にあって、国道一号線と90度 の角度で枝分かれしている。20年ほど前にスラバヤ〜ブロモ山観光ツアーをしたとき、 旅行代理店の車でスラバヤとスカプラのホテル間を往復した。そのとき、確か行きも戻り も国道一号線沿いの食堂Tongas Asriで食事したように記憶している。十年ほど後にジャ カルタとバリを往復するようになったときしばしばそこで食事し、往時を懐かしんだ。 プロボリンゴに向けてパスルアンの町を出たころ、鉄道線路は左側にあった。かなり走っ たあとで踏切があり、線路は右側に移った。そしてまたしばらく走ってト~ガスアスリに 達し、そこから更にプロボリンゴに向かおうとする目の前に踏切がある。右側にあった線 路がまた左側に移ろうと言うのだ。そしてなんと、この踏切は国道と線路が狭いX字型に 交差する形になっていたのである。およそ60メートルほどに渡って、線路が道路と同居 していた。その60メートルの中で車が立ち往生すればたいへんなことになるだろう。 こんな場所は広い世界にあまりないのではあるまいか。道路はダンデルスの大郵便道路で あり、鉄路は1884年にパスルアン〜プロボリンゴ間が敷設されている。オランダ人は なぜこの踏切を路面電車のようにしてしまったのだろうか? ラウォンの話が脱線してしまったようだから、本題に戻ろう。カルヨディルジョとマルニ の夫婦はト~ガスで生まれ育った。この夫婦が練り上げたラウォンのレシピはこの地方の 家庭料理を踏まえたものだったにちがいあるまい。 今のデポラウォン~グリン店主は創設者の孫であり、過去三代の技術を駆使してスープを 濃くするのに成功した。14種類のスパイスの個性的な調合方法がその成果を生んだとの ことだ。入っている牛肉も他の店よりちょっと大きい。こうしてデポラウォン~グリンは いまやジャカルタとタングランにフランチャイズ店を持つに至っている。 ラウォンはスラバヤの南方でも一般的な家庭料理であるが、西方でも同様だ。ラモガンの ひとびとも、普通の家庭料理としてラウォンを作っている。ところが、スラバヤの北側に あるマドゥラ島でもラウォンが作られるものの、色が黒くなくて赤っぽいのである。なぜ かと言えば、ラウォンのブンブレシピからクルワッが脱けているのだ。 マドゥラ人識者によれば「マドゥラにはクルワッの樹がない。だから使わない。」という だけの話らしい。クルワッ問題を別にして、マドゥラのラウォンはジャワのラウォンとま ったく同一であり、まったく同じように調理され、同じように食べられている。色が赤っ ぽいのは華人プラナカンの影響が入ったからだ、とマドゥラ人識者は語っている。 [ 続く ]