「ヌサンタラの馬車(14)」(2021年12月16日)

だが、アンドンの持ち主がみんなパルヤディさんのような考え方をしているわけでもない。
コミルさんはアンドン業に行き詰まって、百歳を超えている自分のアンドンを3千5百万
ルピアで売った。馬は含まれていない。コミルさんは相伝のアンドンが2台あった。それ
が負担になっていたのだ。観光馬車であれ、タクシー馬車であれ、収入が1ルピアすら得
られない日が必ずある。しかし馬は毎日食わなければならない。1頭当たりの馬の餌代は
一日3万ルピアを下らない。


バントゥル県セウォン郡バグンハルジョ村のムシランさんは数少なくなったアンドン修理
工房の主だ。もちろん制作することもできるが、注文なしに作ってもいつ売れるかわから
ないから無謀な行為に当たるだろう。GBPHユダニンラ氏がアンドン生産者はプランバナン
とバントゥルにいると語っていた、そのうちのひとりである。バントゥルには他にもジュ
ティスにアンドン専門のベンケルがあるし、コタグデにもある。ヨグヤ市内にいるアンド
ンの御者たちの間では、どんなに難しい修理でもこなして最高の状態にしてくれるムシラ
ンさんの腕が高く評価されているようだ。

ムシランさんがこの商売に入ったのは1961年のことだった。アンドン黄金時代の真っ
ただ中だ。無数にあるアンドンの修理調整の需要は山ほどあった。

14歳のムシラン少年はアンドンのことを何でも知っているパッ・ムルに師事した。パッ
・ムルのベンケルで一年間働いてから、ムシラン少年は独立して4人の仲間と一緒にベン
ケルを構えた。最初はありあわせの器具類をやりくりして使った。仕事は津波のように押
し寄せて来た。

「アンドンのサービスは、現代の四輪二輪自動車のようにはいかない。自動車の部品交換
は、部品が市場にたくさん出回っているから、それを取り換えればよい。アンドンは本体
の部品が消耗したら、それと同じ物を鉄と木材から作り出さなければならない。だからベ
ンケルには交換部品などほとんど見当たらず、あるのは素材ばかりだ。」ムシランさんは
そう語る。

アンドンの弱点は車輪にある。もっとも酷使される可動部だから、消耗もはげしく、短期
間に働きが悪くなる。アンドンの御者たちは三カ月ごとに車体のサービスを求めてベンケ
ルを訪れる。ムシランさんの車輪の補修は定評があった。

かれはキロ1万ルピアで買って来た鉄素材をチーク炭を燃やした炉で熱して、巧みに曲線
を作り出す。「チーク炭でないと適切な温度が得られない。ところが昨今では、チーク炭
を探すのに骨が折れますよ。」

車体や車輪の木部は、キロ1千ルピアで買って来るチーク材が使われる。前輪の新品は3
0万ルピア、後輪の新品は35万ルピアの値付けにされている。新品のアンドンを丸ごと
作れば、5百万から6百万ルピアの売値になる。


昔は毎日、このベンケルにアンドンが持ち込まれたものだが、今では一週間にせいぜい2
台くらいしかやってこない。たいしてひどい状態になっていなければ、費用は2.5万か
ら5万ルピアの間でおさまる。

しかしそれでは、かれの一家の生活費が十分にまかなえない。ましてや、かれのベンケル
は借地にあるのだから。ここの地主はジャカルタで暮らしている、とかれは言う。
「もしもかれがバントゥルに戻って来て、ここに自分の家を建てて住むと言い出せば、こ
のベンケルはそれでおしまいだ。わしには、その先どうすればよいのか、まるで見当もつ
かない。わしの子供たちもこの仕事を継ぐ気は毛頭ないのだし・・・」

ムシランさんはほとんど学校教育を受けていない。かれは読み書きが満足にできないのだ。
生涯をかけて身につけたアンドンに関する技能ひとつが、かれにとっての世渡りの術なの
である。

かれはまだ一度もひとに騙されたことがないそうだ。アンドンの御者はみんな小市民であ
って、大きな事業をやっている人間とはちがう。同じ小市民同士で相手を騙そうという者
はまずいない、というのがかれの意見だった。[ 続く ]