「ヌサンタラの馬車(15)」(2021年12月17日)

[ebro]
KBBIにはkereta sewaan (beroda dua atau empat)と説明されている。ebroとはオラ
ンダ語Eerste Bataviasche Rijtuig Ondernemingの頭字語であり、バタヴィア最初の馬車
会社を意味している。この会社はヨーロッパ人Chevalienが1862年に開業して、サワ
ブサールに本社を置いた。

植民地時代のバタヴィアで馬車タクシー業を行った会社がふたつあり、ひとつがこのエブ
ロ、もうひとつはRopo(Rijtuig Onderneming Petodjo Oost)で、互いにライバル視して客
を取り合ったそうだ。ロポよりエブロの方が一枚上を行っていたのではないかと思われる
のは、エブロが一般名詞としてインドネシア語の中に定着した事実を見るかぎり、エブロ
がロポよりはるかにブタウィ社会になじんでいたことをそれが想像させてくれるからだ。
オランダ人はエブロと呼ばずにErikと呼んだ、と書いている記事もある。

プリブミはebroを訛ってembroと発音する傾向があったために、しばしばエンブロと発音
され、またそのように綴られることもある。言うまでもなく、元の会社名にMの頭字を持
つ単語は含まれていない。

エブロはタクシー事業のために屋根付きの四輪馬車を多用したことから、バタヴィア〜ジ
ャカルタではエブロのイメージが四輪馬車で出来上がったらしく、ブタウィ人の中にヨグ
ヤカルタのアンドンをエブロと呼ぶひとが少なからずいた。バタヴィア時代には、エブロ
のチャーター料金が四輪馬車の中ではもっとも廉かった。馬は一頭もしくは二頭が使われ
た。デュ・ペロンは1935年に「通常のハイヤー馬車エブロは二輪でなく四輪であり、
サドなどよりずっと上品にゆっくり走った。」と書いている。

東プトジョに会社を構えたロポは、ヨグヤ・ソロで使われているアンドンよりずっと上等
な四輪馬車を使っていた。

それらの馬車タクシーに対抗するかのように、バタヴィアのホテルも宿泊客用にチャータ
ー馬車を用意した。Milorと呼ばれたホテル所有の馬車は四輪の馬車タクシーよりもはる
かに豪華な車体になっていて、黒塗りの車体は馬車タクシーよりも長く、乗客はゆったり
したスペースを満喫できた。馬車タクシーが屋根付きであるのに対してミロルは屋根がな
く、オープンカーだった。

[pelangki]
四輪馬車のひとつにプランキと呼ばれるものがあった。これは英語のpalanquinに相当す
るオランダ語palankijnがムラユ語化されたもので、オランダ語のパランケインも英語の
パランクインも、人間が担いで運ぶ輿や駕籠を意味しているのだが、バタヴィアでオラン
ダ人は四輪馬車をパランケインと呼んだようだ。

これは馬二頭で引く、屋根と壁で覆われている4人もしくは6人乗りの箱型車体で、座席
は馬車の進行方向に後ろ向きと前向きに対面して座るタイプだった。車体には鉄格子のは
まった窓があり、また出入りする扉の高さは70センチだった。車輪は鉄製リムが丸出し
だったために、大騒音を立てて走ったそうだ。

富裕な華人商人層が使っていたという説明があるので、VOC時代のバタヴィアでカピテ
ンチナを筆頭に、ヨーロッパから輸入されたものが使われていたのかもしれない。このプ
ランキという言葉はKBBIに採録されていないので、標準インドネシア語彙として認め
られていないようだ。

プランキという名称は付いていないが、1999年の新聞記事に、中部ジャワ州カルトス
ロで大型四輪馬車を作っているひとが紹介されていた。作っている馬車はチーク材を使っ
たアンティークデザインのもので、日本やヨーロッパの各地に輸出されている。輸出価格
は一台が1千4百万ルピアに達すると述べられている。[ 続く ]