「ジャワ島の料理(33)」(2021年12月20日)

1811〜1816年のイギリスによるジャワ島占領時代にマドゥラ島を周遊する道路が
できた。ところがその道路を利用する者は各地の行政官や吏僚と島内を巡回する物売りば
かりであり、住民一般はジャワ島北海岸部との間に昔から連綿と築き上げられてきた血族
・知己・ビジネスなどの関係に引きずられて、故郷を出ることは海を渡ることを相変わら
ず意味していた。

マドゥラ島の各地方は横のつながりを持たずに互いに孤立し、それぞれがジャワ島の各地
と結びついていた。だから普通の意味での文化的共通性は薄く、むしろ多様性を強く内包
する歴史になっていたと言うことができるだろう。

全島が石灰岩質のマドゥラ島はソロ渓谷の延長であり、島は東西に190キロも伸びてい
るが南北は40キロほどの幅しかない。島の中央部は標高471mのトゥンブクTembuku
山が最高位にあって、総体的に平坦な丘陵地をなしている。島のあちこちにできた堆積土
でしか食用作物は栽培できず、また雨量が少ないために10〜4月の雨季ですら、トウモ
ロコシやキャッサバしか植えることができない。だからマドゥラ人は農業を営む者ですら、
海から離れることができないのだ。かれらは自分たちの暮らしを「波を枕にし、風を毛布
にする」と形容している。

海から離れられないかれらの間に、海砂に寝ることを好むひとびとがいる。スムヌップ県
の東北部海岸にあるバタンバタン郡の東西ルグン村・ダペンダ村・ロンバン村では、先祖
代々から住民は砂にくるまって眠ることを習慣にしてきた。今でも数百戸の家がその習慣
を続けている。

古い資料には上のように四つの村の名が挙げられているのだが、新しい資料にはロンバン
村が出てこない。

村の中は、家の庭から通路に至るまで、砂ばかりだ。そんな家の外の砂の上に寝転がって
昼寝する老婆もいる。貧困のゆえに砂を代用品にして苦肉の策を取っているのかと言うと、
まったくそんな風には見えない。昔がどうであったのかはいざ知らず、現在の村の中にあ
るのはレンガ作りでタイル張りの立派なお屋敷ばかりなのだから。表には石造りのベラン
ダがあり、そこから家屋の間を埋めている砂の地面に降りる。

その家の中の寝室の床には、人ひとりが寝転がるに十分な大きさの木枠が置かれて、そこ
に砂が敷き詰められている。寝室にはダブルサイズのスプリングベッドが置かれてシーツ
が敷かれているにも関わらず、ひとびとはベッドで眠ろうとしない。じゃあ、いったい何
のためにそんなベッドを買ったのか?

お屋敷の調度品としてそれがなければおかしいからだ、と村人のひとりは説明した。しか
も全然使わないわけではないのですよ、と笑いながら言う。ときどきは、夫婦の営みがそ
こでなされるのだそうだ。砂の上で男女の交わりをするのは、若いころだけで十分なのだ
ろう。子供たちも、ベッドで寝るよりも砂で寝るほうが熟睡できると言う。

現代人は普通、家の中の床に砂があれば、家の中が汚れていると思うだろう。砂はゴミで
あり、汚物なのである。ところが夏の日に海辺へ行くと、嬉々として砂とたわむれている
ひとがたくさん目に映る。都市での日常感覚がバケーションの中で生まれる価値を殺さな
ければならないのであれば、現代人の日常生活における豊かさとは何を意味しているのだ
ろうか。


東ルグン村の中は、都市部の中流層住宅地にあるような家屋が並んでいる。ところが村内
の構造は道路を基準にすえて家屋を配置するスタイルでなく、家屋が寄り集まって建てら
れ、家屋の間が人間の通路として使われるスタイルになっていて、家が方形の地所の上に
建てられていないために塀や垣根などもまったく存在しない。きっとそれは、各家屋の地
所がどこからどこまで、ということがらを気に掛ける人間がいない場所であることを意味
しているにちがいあるまい。

わたしは昔、西ジャワの山の中を車で走っていて、そんな構造の村の中に迷い込んだこと
がある。車が通り抜けることのできる道路がない村というものに生まれてはじめて出会っ
て度肝を抜かれ、早々にやって来た道を引き返すという珍しい体験をした。[ 続く ]