「ジャワ島の料理(35)」(2021年12月22日)

砂はまた、普通の住民が身を守るための道具としても使われた。マドゥラ人の護身用の武
器はチュルリッや刀剣が普通だ。しかし砂の民は刃物を持ち歩かず、少量の砂を隠し持っ
て歩いた。威嚇したり危害を加えようとしてくる者に、砂が投げつけられたのである。


スムヌップのマドゥラ文化研究家は、三つの村に砂ベッドを教えたのは外部の人間だった
と語る。それを実践した村人たちは、リューマチや痛風、身体がだるいといった病気にか
かりにくくなったことを挙げて、その実践を他の村人たちに勧めた。それが伝統と化した
ために、高価なベッドを家の中に持っても、ひとびとは相変わらず砂に寝ようとする。経
済状態が改善されて、大きく立派なタイル張りの家を持ったにもかかわらず、家の中には
かならずひとつふたつの砂部屋が設けられているのである。

ブラックマジックはジャワでilmu hitam, santet, sihirなどと呼ばれてその効果が信じ
られている。邪魔になる人間を排除したり憎悪のからんだ攻撃をしかけようとして何者か
が黒魔術を使ってきた場合、対象者が土や砂に身体を接していれば黒魔術の鋭さが減殺さ
れると言われている。眠っているときに黒魔術の攻撃がしかけられる場合、砂ベッドは心
強い防壁になってくれるにちがいあるまい。

だがそんなことよりも、砂ベッドは日中の暑熱の下で涼しさを、夜間の気温低下の中での
温かさをもたらしてくれる。ブラックマジックを信じようが信じまいが、砂ベッドの効用
はかれらにとって、容易に手放せないものになっているにちがいあるまい。


その村々がお屋敷で埋められるようになったのは1980年代になってからだった。ほと
んどが漁民の村人はそのころから沖に出て引き網を使い始めた。漁獲量がめざましく増加
し、漁獲はスムヌップやスラバヤに水揚げされ、収入増に伴って生活が豊かになった。だ
が村人は砂ベッドの伝統を捨てようとしなかったのである。

しかし砂で農業を営むのは無理だ。マドゥラ島南部のいくつかの地方にできた、堆積土に
恵まれた場所に人間が集まって来て町ができ、そして現在ある南海岸部の四つの都市にな
った。おまけにそれらの都市はスラバヤと東方の諸島を結ぶ通商路に位置していたことか
ら商船が寄港地としてそこを利用したために、四つの都市は経済的に潤った。

それらの諸都市も物産を用意して通商路の地の利を最大限に利用することを怠らなかった。
オランダ人はバンカランとサンパンをまとめて西マドゥラ行政区にしたが、19世紀には
そこから果実・薪・石灰・海産魚そして木彫品がスラバヤやグルシッに積み出されていた。
スムヌップからはトウモロコシ・大豆・タバコ葉・植物油・タマリンドの種子・水牛の皮
・マドゥラ織布、さらにたくさんの牛が積み出された。

だがマドゥラ島最大の特産品は塩だったのである。「塩の島」の異名通り、海と共に生き
るマドゥラ農民はすべての都市で塩の生産活動にいそしんだのだ。ヌサンタラのどの地に
もまして塩味を好むマドゥラ人の味覚には、そんな裏付けが存在していた。


そんな商業活動がジャワ島から米を主体とする食糧食材を購入する資金を生み出したが、
増加して行く住民人口を養うには限界がある。かれらの日常生活における食は常に魚と海
産物がメインを占めた。ソトのような牛肉を使う料理は祝祭の饗宴にふさわしいものに位
置付けられたが、そんなソトですら海の風味から離れることができずにプティスとトラシ
が加えられ、塩味が優勢になった。[ 続く ]