「ジャワ島の料理(36)」(2021年12月23日)

食糧生産の困難さからもっぱら食糧をジャワ島から輸入してきたマドゥラ島には、人口増
加を支える術がなかった。マドゥラ人にとって、若い者がランタウするのは当たり前にな
った。

1815年にラフルズ総督が人口調査を命じたとき、マドゥラ島の住民人口は21万9千
人であることが明らかになった。人口密度は平方キロ当たり41人で、なんとその時代の
ジャワ島が34人だったのより高密度になっている。

1867年から1961年までの間に行われた人口調査でも、マドゥラは毎回人口密度が
ジャワを上回った。19世紀の初期から、マドゥラ島の食糧は総人口を養うのに十分な量
の食糧が得られていなかったのだ。だから若い者はマドゥラ海峡を越えてジャワ島タパル
クダ地方にランタウするのが常識と化した。ところが1942年にオランダ人に取って代
わった日本軍はマドゥラ人のジャワ島への移住を禁止した。


シトゥボンドの住民サレさん85歳はスムヌップのバトゥプティで生まれ育った。日本が
戦争に敗れたとき、ジャワ島へのランタウ船が復活したため、10歳の少年は10ルピア
を握りしめて木造の帆船に乗った。75人を乗せた立錐の余地もない小舟は一晩中走り続
け、翌朝パナルカンに着いた。陸に上がった少年は、シトゥボンドに住む伯父の家を目指
して一心不乱に歩いた。

シトゥボンドで少年はあらゆる仕事をしてわずかな金を稼いだ。石工もしたし、漁船に乗
って漁もした。26歳のとき、シトゥボンド生まれの12歳の少女と許婚し、少女が小学
校を終えてから結婚した。3年後に子供が産まれた。

二人目の子供が産まれたあと、一家はスムヌップに里帰りした。実家のひとびとはまるで
死人が生き返ったかのように驚いたそうだ。シトゥボンド市内マワル通りにある食事ワル
ン「パッサレ」のご主人がかれだ。奥さんとふたりで家庭料理の食堂を営んでいる。メニ
ューはnasi jagung, sayur kelor, ikan kuah asamなどのマドゥラ料理とrawon, lodeh, 
nasi campurなどのジャワ料理。だが味付けはすべてに渡って塩味が顕著だ。
「だいたいマドゥラ風の味付けになりますよ。でもここじゃまったく問題ありません。シ
トゥボンドの住民はたいていマドゥラ人の子孫なんですから。」奥さんはそう言って笑っ
た。

シトゥボンドの別のワルンでは、牛肉と緑豆のスープがメニューにあった。スープは濃く
なく、豆も少なく、牛肉の細切れがたくさん入っていた。シトゥボンドのひとは牛のだし
汁の濃いものを好まない、と店主がコメントした。たしかにそのレシピはマドゥラ風なの
である。

kelorとはワサビノキのことだ。マドゥラの家庭が野菜を料理するときは、ほぼこのワサ
ビノキ一本やりになるそうだ。マドゥラ島で容易に入手できる緑野菜は本当に限られてい
る。ナシジャグンは白飯では量が足りないがゆえの発想であり、ジャワに住めば若者たち
はもうナシジャグンに見向きもしない。それを注文するひとはたいてい年齢が高い。60
歳を超えたベチャ引きの客はナシジャグンを注文し、腹に溜まって力が出るからこれが一
番良いのだ、と論評した。

ザワウィ・イムロン氏によれば、マドゥラ島でもナシジャグンは1965年ごろから食べ
るひとが減ってしまった。マドゥラ人の経済状況が向上して白米の購入量が増えたために、
多くの家庭が念願の白い飯を満喫するようになったからだ。


マドゥラ人のジャワ島海岸部へのランタウは昔から行われて来た。18世紀半ばごろには、
ジャワ東部地方に83万3千人のマドゥラ人が住んでいた。マドゥラ本島の人口の2倍だ。
1930年にマドゥラ島外に住んでいるマドゥラ人人口は250万人で、その大半がジャ
ワ東部地方に住んでいた。[ 続く ]