「ヌサンタラの馬車(18)」(2021年12月22日)

[pedati]
gerobak yang dihela kuda, lembu, atau kerbauというのがKBBIの説明だ。画像検索
では、一頭または二頭の牛や水牛が引く二輪の荷車の姿が見られる。

わたしの言語体験から得られた語感では、荷物運搬を主目的にした、馬や牛が引く荷車が
チカルあるいはプダティと呼ばれており、チカルよりプダティの方が傾向として大型の印
象になっている。しかしグロバッサピの同義語としてチカルやプダティの語を使うひとに
してみれば、その種の特徴による使い分けはきっと論外になることだろう。


一軒の家くらいのかさになる大量の貨物を積んで移動するプダティは道路を壊さずにはお
かない。1809年に完成したダンデルス総督の大郵便道路では、プダティの通行が禁止
された。

大郵便道路は幅7メートルの平な道路を本線にし、その両脇に適宜側道が設けられてそれ
がjalan pedatiと呼ばれた。プダティは公式の「道路」を通ってはならず、その脇を通れ
ということだったようだ。


とてつもなく巨大な木製プダティがチルボンにある。サカ暦1371年(西暦1449年)
に作られたと言われているこの通称pedati gedeは、全長8.6m、高さ3.5m、幅2.
6mの巨大な荷車に直径2mの大車輪6個と直径1.5mの小車輪2個が付いており、車
輪の木製スポークはそれぞれが長さ90cmと70cmになっている。車軸は直径15c
mの丸棒がやはり木製の筒型になった軸受けに差し込まれて車輪につながっている。車軸
の潤滑剤にはダマルdamarの木の樹脂が使われている。

しかも驚くべきことに、その後部に車輪を持つ別の荷台を取り付けて長さをもっと長くす
ることが容易にできるようになっている。連結する場合の連結部の構造が、付けたり外し
たりする作業を想定して作られているのである。

このプダティグデを引いたのは、ソロ王宮で飼育されている神聖なキヤイスラムッと同じ
kebo bule、つまり白子水牛だった。クボブレは普通の水牛よりも力が強いと信じられて
いたそうだ。


西暦1449年というのは、パクアンパジャジャランPakuan Pajajaran王国のシリワギ大
王の長子チャクラブアナCakrabuanaがチルボンに王国を築いてから19年後に当たる。チ
ャクラブアナはイスラムを奉じたためシリワギ大王の後継が許されず、チルボンにイスラ
ム王朝を開くことになった。

1479年にスナングヌンジャティがチルボンの王位に就いたときもプダティグデは依然
として使われており、1480年にチプタラサ大モスクが建設されたとき、大量の建築資
材を運搬するのにプダティグデが大いに活躍した。そのモスクは今でもチルボンのカスプ
ハン王宮前アルナルンの南西角地にあって、偉大なる栄光を今日に伝えている。

1570年から1649年までチルボンの王位に就いたパヌンバハンラトゥ1世の称号を
持つスルタン・ザイヌル・アリフィンの時代に民衆のプダティ作りは活況を呈して、プダ
ティグデが具現している古い時代の技術の知恵が民衆のプダティ作りにいろいろなヒント
を与えた。だからこのプダティグデが現在ジャワ島で使われているすべてのプダティの生
みの親だとも言われている。


西ジャワ地方では、2世紀にプダティが作られていたことが歴史資料の中に描かれている。
現在のボゴール県にできたタルマヌガラ王国はプルナワルマン王が統治していた。ところ
が弟のサキアワルマンが王位を奪おうとして反乱を起こした。兄王の一家一族を皆殺しに
しようというのだ。[ 続く ]