「ヌサンタラの馬車(19)」(2021年12月23日)

激しい戦闘が行われ、不意の攻撃を受けた国王側が押されてギリナタGirinata地方へ落ち
のびて来た。そこは現在のチルボン県パリマナンPalimanan地方に当たる。その地はチル
マイCiremai山麓を本拠にするインドラプラスタIndraprahasta王国領であり、プルナワル
マンはウィルヤバニュ王に援助を求めた。両者は隣国の王としてそれまでに親交を結んで
おり、互いの子供を許婚にしていたのだから、ウィルヤバニュ王も手をこまねいているわ
けにはいかない。

インドラプラスタの軍勢に非常呼集がかけられ、兵士を満載したプダティの行列がギリナ
タに向かって出発した。戦場に着いてからは、プダティはバリケードや盾として使われた
そうだ。

このインドラプラスタという名称はインドにあった王国の名前によく似ている。また古籍
Negara Kretabhumiにはサカ暦80年から230年ごろまで、インドやベンガルからたく
さんの船がヌサンタラにやってきて多くのひとびとが住み着いたことが記されている。

インド文化の中で発展した車両がインドラプラスタでは普通のものになっていた可能性が
そこから感じ取れるかもしれない。時の経過と共に、グロバッやクレタはジャワ島原住民
の間に広まって行ったことだろう。

チルボン郷土史研究家のスジャナ氏は、チルボンのように泥土の湿地が多いところでは、
木製のプダティが便利だ、と言う。泥穴に車輪を落として立ち往生したとき、車輪を持ち
上げて木を敷き、御者が水牛に一鞭くれて走らせば容易に穴から脱け出せるのだそうだ。


この歴史的文化遺産であるプダティグデはチルボンの街中の狭い住宅地区の中に置かれて
いる。王宮や博物館に置かれる方が自然であるにも関わらず、チルボン市プカリパン郡プ
カラガン町のプダティグデ小路(Gang Pedati Gede, Kelurahan Pekalangan, Kecamatan 
Pekalipan)がその所在地になっているのだ。プダティグデを見に行くには徒歩で住宅密集
地区の狭い路地をいくつも抜けて行かなければならない。そんな狭い小路を住民がオート
バイで通り抜けるから、歩くだけでもたいへんだ。

国民教育省チルボン市地方事務所が出したプダティグデと題する書物には、非常に高い価
値を持つ文化財としてまったくふさわしくない場所にそれが置かれている、と書かれてい
る。

このプカラガン町はかつて木々の生い茂った原野だった。プダティグデはそこに置かれて
いたのだ。ところがその地区が切り開かれてひとが住むようになり、町ができて密集した
住宅地区になったとき、住民たちはプダティグデを自分たちの誇りとして眺めるようにな
った。ひょっとしたら、プダティグデの管理者が住んでいた集落が発展してその住宅密集
地になっていったのかもしれない。その管理者と地縁血縁でつながっているひとびとがプ
ダティグデを自分たちのアイデンティティの一部にしてしまったとしたら、どうなるだろ
うか?

植民地時代の1931年にチルボン市庁が作った市史回顧録Gedenk Boek der Gemeente 
Cheribon 1906-1931には、プダティグデはキ・グデ・プカラガンという称号で呼ばれてい
る御者シェッ・マウラナが維持管理を行っていると記されている。

それをもっとふさわしい場所に陳列するために移動させる話は行政側から何度も出された
が、住民の同意が得られなかった。ましてや、周囲に狭い住宅と路地が密集してしまった
いま、プダティグデをそこから出すだけでもたいへんな仕事になってしまうだろう。

1932年にその地区で起こった大火で、プダティグデの半分が焼けてしまった。だから
今残っている8.6メートルの荷台は元のものの半分でしかないのである。残されている
車輪にも、大火の時に炎がなめた跡が見られる。

オランダのレイデンにある博物館の馬車専門家ヘルマン・デ・フォスト氏が1993年に
プダティグデの現物調査を行い、オリジナルのプダティグデは全長15m幅2.5m高さ
3mで、車輪は12(6対)あり、直径2mの大車輪が3対、直径1.5mの小車輪が3
対という構造をしていたことを明らかにした。上に書いたコンパス紙の記事と一致しない
点が火災で焼失した部分ではないだろうか。[ 続く ]