「ジャワ島の料理(37)」(2021年12月24日)

マドゥラ島の歴史と文化を詳細に記述した書Madura dalam Empat Zaman: Pedagang,Per-
kembangan Ekonomi, dan Islamの著者フウブ・デ・ヨンガHuub de Jongeはその著の中で、
「マドゥラ海峡はマドゥラ文化にとって、まるで湾のようなものだ。・・ジャワ東部地方
のほとんどはマドゥラ人が開拓して経営した。ジャワ東部地方住民のマジョリティはマド
ゥラ出身者であり、スラバヤとグルシッの住民は三分の一がマドゥラ人だ。」と書いてい
る。

1294年に作られたKudadu碑文には、Songenep(現在のSumenep)の王ナラリヤ・マドゥ
ラ・アディパティ・ウィララジャがいかにしてラデンウィジャヤを助けてグラングラン
(現在のクディリ)王ジャヤカッワンとタルタル軍(クビライカーンのジャワ派遣軍)を
撃滅したかが記されている。

マドゥラ人はラデンウィジャヤを助けてタリッの森を開き、そこがマジャパヒッの王都に
なった。マドゥラ人のジャワ島移住の歴史はそれほど古い時代までさかのぼることができ
るのだ。マドゥラ人はすべてマドゥラ海峡を船で渡ってジャワに来た。マドゥラ島に道ら
しい道がなかったために、マドゥラ海峡を船で渡るのがもっとも合理的な手段になってい
た。そのとき、かれらは最短コースを取るのが普通だったから、マドゥラの各都市から来
る船はマドゥラ海峡対岸の町を目指したのである。

その結果、スムヌップのひとびとはシトゥボンド・ボンドウォソ・バニュワギ北部地方に
散らばり、パムカサンからはプロボリンゴに、バンカランやサンパンからはパスルアンに
住み着く者が多かった。特に17〜18世紀に商品作物のための農園がジャワ東部のタパ
ルクダ地方に開かれ始めると、マドゥラ人の移住が増加した。


だが、交通と人間の移動は常に双方向になる。マドゥラに渡るジャワ人が昔から皆無だっ
たわけでもない。仕事をするために、古い時代にマドゥラに作られたプサントレンでイス
ラムを学ぶために、あるいはマドゥラ人と結婚したために相手の実家を訪れるひとも少な
くない。

こうしてタパルクダ地方にマドゥラ+ジャワの融合した料理が定着したように、マドゥラ
本島にもジャワ料理の影響が混じり込んで行ったのである。


マドゥラの家庭料理の基本ブンブはプロポギニpellapa gene'と呼ばれるものだ。プロポ
ギニはコショウ・コリアンダー・ククイ・ニンニク・ネギ葉・塩・赤トウガラシ・チャベ
ラウィッ・ウコン・ショウガで構成されている。

そのバリエーションはいくつかあり、ブンブロジャッbumbu rojakはプロポギニからコシ
ョウ・コリアンダー・ショウガが脱落する。ケラチュロッkella celokは反対に、プロポ
ギニにコブミカン葉とナンキョウが追加される。魚の酸味スープは必ずケラチュロッが使
われる。


プロボリンゴのひとびとは、朝から甘くしたモチ米を食べるのを好む。ketan keratokと
いう食べ物はモチ米とクラトッと呼ばれる豆を一緒に炊き、その上にヤシの果肉フレーク
をふりかけてから液体ヤシ砂糖をたっぷりかけて食べる。もちろん、ひとの好みはさまざ
まだから、ヤシ砂糖の代わりに塩を振って食べる方を好む人もいる。だが主流はもちろん
甘い方だ。プロボリンゴのクタンクラトッと言えば、たいていのひとは液体ヤシ砂糖をイ
メージするだろう。

クラトッという豆は英語でlima bean、日本語はライ豆と呼ばれるもので、ジャワではそ
れをkacang karaと呼んでいる。ジャワ人の発音はカチャンコロであり、バリ島でkacang 
koroという名の豆のおやつを口にしたひともきっといらっしゃることだろう。[ 続く ]