「ヌサンタラの馬車(20)」(2021年12月24日)

チルボンスルタン国は1677年にふたつに分裂した。これはマタラムスルタン国のアマ
ンクラッ1世がジャワ島北岸部を完全に支配下に組み込もうと望み、その時期に西ジャワ
で強勢を誇っていたバンテンとその係累に当たるチルボンがかれの野望の邪魔になると考
えたために、1650年ごろ奸計を謀ってチルボンのスルタンと王子たちをマタラムに招
待したあと、幽閉してしまったことに端を発する。

父親のスルタンアグンが拡張政策を取ってジャワ島内からスマトラやカリマンタンの一部
にまで勢力を広げたあとの王位を継承したアマンクラッ1世は、即位してから政敵の粛清
に熱中した。それが憎悪のからんだ敵を作り出さなかったはずがない。

マドゥラ島は1624年にマタラムに屈服し、マドゥラ支配者の王子トルノジョヨは人質
となってマタラム王宮で暮らしていた。ところがアマンクラッ1世の疑心暗鬼によって、
トルノジョヨの父王が処刑されたのである。トルノジョヨはマタラム王宮から逃げ出して
カジョランに移り、その地の支配者ラデンカジョランの娘を妻にした。

アマンクラッ1世が自分の皇太子にまで疑念を抱いて王宮から追放したとき、ラデンカジ
ョランはその元皇太子とトルノジョヨを引き合わせた。ふたりは意気投合して反アマンク
ラッ1世への反乱戦争を計画し始める。1671年、トルノジョヨはマドゥラに戻ってマ
タラムが置いていた領主を倒し、マドゥラの支配権を手に入れた。


VOCがゴワ王国と戦争して1669年にマカッサルを奪ったとき、マカッサル軍の兵士
たちの一部がバンテンに逃げた。しかしさまざまな問題を起こしたらしく、1674年に
バンテンから追放された。そうなれば無宿の無法者になるだけのかれらは、ジャワ島海岸
部からヌサトゥンガラ地方までの一帯を、海賊業で荒らしまわった。

トルノジョヨの盟友となった元皇太子はマカッサル海賊たちにジャワ島東部タパルクダ地
方のDemungの地を与えて定住させた。このドゥムンはブスキBesukiの東側にある。VOC
の傀儡になったゴワ王国のありさまに不満を抱いていたカラエン・ガレソン率いる一党も
ドゥムンの地に移り住み、トルノジョヨ+元皇太子の兵力に連なった。

タパルクダ地方はマタラムスルタン国の公式領地であるものの、マドゥラ海峡を通してマ
ドゥラ島と深く結ばれており、昔からマドゥラ人がたくさん移住してマドゥラ+ジャワの
融合した文化の土地になっていた。マタラム王宮にとっては政治的経済的価値のほとんど
ない領地だったのである。


トルノジョヨの反乱は1674年に開始された。ドゥムンのマカッサル部隊がグルシッを
攻撃したが、撃退された。翌75年、マカッサル部隊とマドゥラ部隊の合同軍はスラバヤ
とグルシッを陥落させた。アマンクラッ1世はジュパラを反乱軍鎮圧本部に指名したが、
ドゥムンに攻勢をかけた鎮圧軍は撃退された。

アマンクラッ1世は賞金と領地割譲を報酬にしてVOCに援軍を求めた。しかし、マタラ
ム+VOC連合軍もジャワ島東部海域と海岸部では苦戦が続いた。VOCは強力な軍船団
をドゥムンに派遣して攻撃し、マカッサル部隊の本部は陥落した。しかしマドゥラ島への
進攻は行われなかった。

1676年9月、カラエン・ガレソン率いるマカッサル+マドゥラ合同軍9千人がスラバ
ヤを陥落させると、マタラムはその奪還のために大軍を派遣したが大敗した。勢いに乗っ
た反乱軍はジャワ島北岸を西進してクドゥスやドゥマッを陥れ、チルボンに迫った。スル
タンアグンに征服された後、それらの都市国家は軍事的にほとんど無防備の状態になって
いたために、反乱軍の進攻をせき止める力を持っていなかったのだ。そんな諸都市の中で
ジュパラだけが反乱軍に対する旺盛な戦力と戦意を維持していた。

北海岸部を反乱軍の旗が埋め尽くしたあと、ラデンカジョランが動き出した。ジャワ島内
陸部への反乱軍の攻撃は、ラデンカジョラン率いる軍勢の参加によって一躍力強さを増し
たのである。1677年4月、スラバヤに軍司令部を置いてマタラムの王都を奪おうとし
ていたトルノジョヨは、コルネリス・スピルマン率いるVOC海軍部隊のスラバヤ攻略戦
に敗れて、撤退した。VOC軍はジャワ島北岸地域から次々と反乱軍を追い払って行った。
マドゥラ島もVOC軍に敗れて、反乱軍は半ば追い詰められた状態となり、司令部をクデ
ィリKediriに移した。[ 続く ]