「ヌサンタラの馬車(21)」(2021年12月27日)

しかし内陸部での反乱軍の戦果は相変わらず好調で、1677年6月にはついにマタラム
の王都プレレッPleredを陥落させた。アマンクラッ1世は王宮を守ろうとする意欲を示さ
ず、皇太子と従卒を連れて西方へ逃げた。王宮の貴族権臣たちが浮足立てば、王都防衛軍
は戦意を失う。たいした抵抗もなく王宮を陥落させた反乱軍は、王宮と町を略奪しつくし
てクディリに引き上げた。

西方へ逃げたアマンクラッ1世は1977年7月にトゥガルで没し、皇太子がトゥガルの
支配層に支援されてアマンクラッ2世として即位した。トゥガルはアマンクラッ2世の祖
母の故郷だったのである。

アマンクラッ2世はチルボンの軍事力を頼ろうとしたが、チルボンの為政者ワンサクルタ
はそれを拒絶し、バンテン王国の後ろ盾を踏まえて、マタラムへの服従はもはやこれまで
であり、貢納も行わずマタラムから独立すると宣言した。チルボンでは、スルタンと王子
ふたりがマタラムに幽閉されたあと、別の王子ワンサクルタがマタラムで没したスルタン
の代行を務めていたのだ。

一方、後のパクブウォノ1世になるマタラムの王子が王都プレレッを回復してマタラム王
に即位した。アマンクラッ2世こそ、いい面の皮である。自分が動かせる兵力はどこにも
なく、王都にあるマタラム軍はパクブウォノ1世に握られたのだから。かれはVOCに頼
るしかない立場に追い込まれてしまい、そしてその通りにした。

マタラム王都陥落の報を聞いたコルネリス・スピルマンはジュパラに移って善後策を検討
していたところ、そこにアマンクラッ2世がやってきて支援を求めた。こうしてVOCは
後にバンドンが建設されることになるプリアガン高地並びにスマランを領地として手に入
れ、ジャワ島北岸諸都市の専売権をも得たのである。


反乱軍はマタラム王宮にいた人質たちをクディリに連れ帰った。その中にチルボンの王子
ふたりがいることをトルノジョヨは最初、知らなかった。人質になっていたチルボンの王
子マルタウィジャヤとカルタウィジャヤのことを知ったトルノジョヨはふたりを解放して
バンテンに送った。バンテンの支配者スルタン・アグン・ティルタヤサはふたりをチルボ
ンの王にせざるを得なかったのである。こうしてチルボンスルタン国は二分され、それぞ
れがカノマンKanoman王宮とカスプハンKasepuhan王宮に住んで自分の領地を統治すること
になった。

そのふたつの王宮にそれぞれ、王権を象徴する馬車が残されている。王国の最高位者が公
式行事の際に乗る馬車は最高級にして最美麗のものでなければならず、往々にして金箔が
貼られて光り輝くものになっている。オランダ王国のGouden Koets、イギリス王室のGold 
State Coachなどがそれで、英語の一般名称としてはGold CarriageやGold Coachと呼ばれ
ている。インドネシア語ではKereta Kencanaがそれに対応するが、ここで使われている黄
金という言葉はシンボリックな用法であって、金箔が貼られているかどうかの問題ではな
い。先にアンドンの項で触れたヨグヤ王宮のkereta kuda Kanjeng Nyai Jimatもクレタク
ンチャナである。インドネシアではむしろ、美しく華麗なデザインの馬車がクレタクンチ
ャナと呼ばれていて、王権や支配権とは切り離された言葉の用法がなされているようだ。

カノマン王宮を代表するクレタクンチャナは1608年に作られたPaksi Naga Liman、カ
スプハン王宮のものは1549年にスナングヌンジャティの孫Pangeran Losariが作った
Singa Barongだ。

それらの馬車はいずれも、車体は車輪をつなぐフレームの上に載った巨大な動物の像にな
っている。その動物は、象の身体にガルーダの羽が付いており、また頭だけが角の生えた
龍になっている。つまり象limanと龍nagaと鳥paksiが合体したものなのであって、カノマ
ン王宮のものはそのもズバリの名称になっているのだが、カスプハン王宮の馬車に載って
いるその動物がシゴバロンと呼ばれているのはどうしたことだろうか?シゴバロンについ
ては弊著「ヌサンタラのライオン」
 http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-50NusantaraLion.pdf 
をご参照ください。[ 続く ]