「ジャワ島の料理(39)」(2021年12月28日)

このパナス・ディギンの用法の中に「熱い手・冷たい手」というものがある。メイン語義
が適用された、手の温度について述べる用法は言うまでもないが、それとは別の、プラモ
デル作りや日曜大工を美しく仕上げたり、あるいは園芸などできれいに花を咲かせる上手
たちへのほめ言葉としてtangan dinginが使われるのだ。何を植えてもなかなか花が咲き
実がなることが実現しないひとはtangannya panasという評価が与えられる。panas hati
やHatinya panas.を「熱き心」や「心が熱く燃えている」といった日本語の意味に取ると
とんでもないすれ違いが起こるから、用心した方がよい。


チルボンはその名が示す通り、もともとはスンダの文化圏内にあった。スンダ王国に所属
する地域だったと言えるだろう。しかしその地理的位置のゆえに中部ジャワ文化との接触
もたいへん深く、スンダ王国にとっては懐に深く抱くことのできない地方だったようだ。
チルボン地方の言葉にはスンダ語に加えてジャワ語・アラブ語・中国語などがたくさん混
じり込んでいて、多重文化の土地であることを強く感じさせている。

1430年にPangeran Cakrabuanaがチルボンにイスラム王国を建設した。そのころ、そ
の地の名称はまだチルボンになっていなかった。チャクラブアナ王子はパクアンパジャジ
ャラン王国のシリワギ大王の長子であり、第一王位継承者だったのだが、イスラム教徒の
母親に従ってイスラムを信仰し、王国の宗教スンダウィウィタン・ヒンドゥ・ブッダに信
仰を変える意志を持たなかったために、父王はかれの王位継承権を取り消した。

チャクラブアナ王子はパジャジャラン王宮で暮らしているとき、Walangsungsangという名
前だった。ワランスンサンは第一王位継承権を取り消されたのを機会に王宮を出てイスラ
ム教義を深めようと考え、実の妹であるNyai Rara Santangと一緒に王宮を去ってチルボ
ンに向かった。その地方は母親の故郷であり、古くからイスラムが深く根付いていた土地
だった。

最初、ふたりはGedong Witanaを建てて住んだ。1428年に建てられたグドンウィタナ
は現在のカノマン宮殿の中の一部になっている。

この兄妹は賢人ムスリムに師事し、修得が高いレベルに達してからメッカに巡礼した。と
ころが巡礼先で妹のニャイ・ロロ・サンタンがエジプトの王族のひとりと出会い、乞われ
てその妻になったのである。ワランスンサンの義理の弟になるロロ・サンタンの夫はジャ
ワに戻るかれにディルハム貨を1千個与えたと言われている。アラブ地方では古くから、
dinar金貨、dirham銀貨、fulus銅貨が金銭体系の根幹に置かれていたようだ。

後にロロ・サンタンの息子Syarif Hidayatullahがチャクラブアナの後継者としてチルボ
ンスルタン国の第二代スルタンになったあと、チルボンではその通貨システムが行われた
という話がある。


チルボンに戻ったワランスンサンに、師は海岸沿いのクボンプシシル地区を開拓するよう
命じた。密林地帯が開拓されて人間の居住が始まった。初めはクボンプシシルに先住して
いた老翁が村長になって統治が行われたが、村長が没すると村民はワランスンサンを二代
目村長に指名し、スルタン国建設が開始された。その時から、かれはチャクラブアナ王子
の名で呼ばれるようになった。

1430年にクボンプシシルにチャクラブアナが建てた王宮はPakungwati宮殿と呼ばれ、
チルボンスルタン国の統治行政がそこで開始され、また活発なイスラム布教の震源地とも
なった。パクンワティ宮殿は現在のカスプハン王宮がある場所に建てられた。

マジャパヒッ王国の領地のひとつに過ぎなかったドゥマッDemakがマジャパヒッの王都を
滅ぼしてイスラム国家を宣し、ジャワ島イスラム化の渦を巻き起こした裏側に、チルボン
スルタン国との関りがあったことを指摘している論説もある。もちろん、ドゥマッスルタ
ン国誕生はもっと後の時代のことだ。[ 続く ]