「ジャワ島の料理(40)」(2021年12月29日)

初代スルタンのチャクラブアナが1479年に没し、実の妹の息子(つまりは甥)のシャ
リフ・ヒダヤトゥラが第二代スルタンに即位した。後にスナングヌンジャティの名で呼ば
れる人物がかれだ。

シャリフ・ヒダヤトゥラはスルタンになる前から西ジャワ北岸部へのイスラム布教に力を
注ぎ、町々にイスラムの種を蒔いているときにバンテン海岸部スロソワンの統治者の娘を
妻にした。1478年、この夫婦の間にMaulana Hasanuddinが生まれた。

ジャワ島のヒンドゥブッダ文化のひとびとは概して、イスラム教にたいへん寛容だったよ
うに見える。パジャジャランの大王もマジャパヒッの大王も、そして各地の地方領主たち
も自分が信仰するヒンドゥブッダをそのままにしてイスラム女性を妻のひとりにしたし、
また力のあるイスラムの男たちに自分の娘を与えていたのだから。イスラム教徒の妻が改
宗を強制されることはなかったようだから、生まれた子供が母親の教えるイスラムの宗教
戒律と信仰礼式を身に付けてムスリムになることもしばしば起こった。ドゥマッの初代ス
ルタンであるラデンパタがその好例ではないだろうか。

その結果、ヒンドゥブッダの信仰とその教義にもとづく社会構造が運営されている中で、
独特の知性を持つイスラムに惹かれたヒンドゥブッダ王国の貴族や高官も出現したようだ。
少なくともその時代に、宗教を理由にした対立は起こらなかったように見える。


1478年ごろ、シャリフ・ヒダヤトゥラは妻の実家であるバンテンのSurosowan宮殿で
暮らしていたが、チルボンの初代スルタンが没したためにチルボンに戻って第二代スルタ
ンに即位した。

バンテンをはじめとする西ジャワの北海岸部港湾諸都市のイスラム教徒の増加にともなっ
て、ジャワ島北岸のイスラム化した諸都市との交易が活発化したことがパジャジャラン王
国に危機感をもたらした。ムスリムになることで宗教上の兄弟意識のもとに活発な商活動
に参加できるような事態が進展していくなら、これまで平穏に営まれて来たヒンドゥブッ
ダ社会の破壊につながることは為政者ならすぐに気が付くだろう。パジャジャランの大王
はマラッカを奪ったアンチイスラムのポルトガルと共同戦線を張ってその打開策にしよう
とした。

その動きがイスラム諸都市を不安に陥れた。その対抗策としてたてられた戦略が、ポルト
ガルの西ジャワ侵入を完ぺきにシャットアウトするためにバンテンとスンダクラパをイス
ラム化することだった。

1524〜25年にマウラナ・ハサヌディンを総大将、ファタヒラを将軍とするチルボン
とドゥマッの連合軍がバンテンに進軍した。そのときの戦争はスロソワン地区でなく、パ
ジャジャラン王国の出先になっているバンテンギラン地区で行われただけだったようだ。

マウラナ・ハサヌディンを総大将として前面に押し立てたことの中に、かれがシャリフ・
ヒダヤトゥラの息子であるという要因に加えて、スロソワン宮殿の血族であったという要
素が重要な役割を帯びていたことは疑いあるまい。

つまりバンテンの征服と呼ばれてはいるものの、上述の内容を読む限り、バンテンは既に
海岸部がイスラム寄りになっていて、内陸部からの統治支配の下で面従腹背を行っていた
だけだったように解釈できるのである。パジャジャラン王宮の呼号する反イスラム体制に
則ってバンテンの全域がイスラム軍と全面戦争したわけではないということがその解説か
ら読み取れる。

バンテンとスンダクラパがチルボンの属領になり、さらにバンテンスルタン国が築かれた
後も、バンテンとチルボンは祖先を同一にする子孫として親戚関係を維持した。


チルボンの町が作られたこの地方はチーク林が一面に広がっていたようだ。チークを意味
するジャティという言葉が付けられた地名が少なくない。もともとこの地方にはムアラジ
ャティという名の港があり、鄭和の大船団が1415年にムアラジャティに寄港して親善
訪問を行った。[ 続く ]