「ジャワ島の料理(41)」(2021年12月30日)

その時期、ムアラジャティを含むこの地方はKi Gedeng Tapaがパジャジャラン王国のマン
クブミとして統治しており、同じムスリムとして鄭和の来訪を歓迎したようだ。このキ・
グドゥン・タパがシリワギ大王の妻になってワランスンサンを生んだ女性の父親である。
鄭和の一行はムアラジャティ港に灯台を建て、また地元民に陶器作り・進んだ漁労方式・
港湾運営などを教えた。船団乗組員の一部は灯台の維持及び次回の鄭和船団来航時の食糧
と水の供給という仕事を与えられて、チルボンに残って土着し、アンパランジャティ地区
の三カ所にモスクを持つ華人部落を作った。今でもチルボンのPecinan(華人居住区)が
そこにある。

華人から学んだ陶器作りの技術を使ってタイルが焼かれ、王宮や大モスクの壁に貼られた。
それらチルボンの歴史を物語る壮大な建築物の壁を飾る中華風のタイルは現在もまだ生き
続けている。チルボンスルタン国がヒンドゥ文化・中華文化・イスラムエジプト文化との
友好親善を基盤に置いたのは、そういった歴史的背景があったからだろう。


チルボンという名称の由来について、こんなエピソードが古文書に書かれている。143
0年にチャクラブアナ王子がクボンプシシルにスルタン国を建設したあと、パジャジャラ
ン王国から使節団がクボンプシシルを訪れて王宮の客になった。多分、元の皇太子ワラン
スンサン王子が新王国を作ったことから、その服属と貢納の確認をするために派遣されて
来たのだろう。

賓客への饗応にクボンプシシルの特産品トラシが出された。小エビをすり潰した固形のト
ラシに客たちは喜んだ。こんなうまいものを食べたのは初めてだ。するとホストのスルタ
ンはスンダ語でこう述べた。「Mundak caina!」液体はこんなものじゃないよ。

客人たちに配って味見をしてもらうと、実にその通り。使節団の食は進みに進み、お代わ
りを求める声が口々に出た。「Cai rebon!」「チャイルボン!」

以来、クボンプシシルのひとびとは自らの土地をCairebonanと呼ぶようになり、長い年月
の果てにチャイルボナンがチルボンになった。

チャクラブアナは自分のスルタン国がパジャジャランに服属することを拒んだ。自分の国
は独立した王国であり、だれに服属する気もない。使節はきっと、自分の王の息子で皇太
子でもあった人物に威嚇や恫喝を織り交ぜて要求を強制することに臆したのではあるまい
か。

チルボンがバンテンスルタン国を作り、チルボンとバンテンが共同でパジャジャラン王国
を滅ぼして西ジャワのイスラム化を実現させた歴史は、マジャパヒッとドゥマッの関係に
相通じているような気がしてならない。


別説に、チルボンの語源はcarubanだというものがある。1720年にアルヤ・チャルボ
ン王子が書いたPurwaka Caruban Nagariと題する書物の中にこの説が述べられている。イ
ンドネシア語のcampuranを意味するジャワ語sarumbanが音変化の結果チャルバンと発音さ
れるようになり、それがチルボンの語源となった、と言うのである。スンダ人・ジャワ人
・華人・アラブ人が入り混じって生活共同体を作った町を表現したものだというのがこの
語源説の解説になっている。

プルワカチャルバンナガリとは「チャルバン国序説」という意味になる。チルボン王宮の
建築様式にそのcampuranが反映されているし、王宮に置かれている先祖代々の馬車クレタ
クンチャナにも反映されている。

ちなみに東ジャワ州の内陸部にも、マディウン県にチャルバンという名前の町がある。こ
の小さい町はNgawiとNganjukをつなぐ街道にあって、わたしがジャカルタ⇔バリ間を往復
していたころ、ジャワ島中ルートを取るときは毎回この町を通過した。

インドネシア語ウィキでは、ジャワ語carubがcampurを意味していて、歴史的に異文化人
が混じり合って住んだ、開かれた町だったことを思わせる名称だという説明になっている。
この東ジャワのチャルバンと、チルボンに関わっているチャルバンナガリとは何の関係も
ないようだ。[ 続く ]