「自転車は風の車?(5)」(2022年01月14日)

20世紀初期のころから、バタヴィア旧市街に勤めるオランダ人トアンたちはヴェルテフ
レーデンの自宅から職場に自転車で通勤するひとが増え、通勤時間帯には路面電車も混雑
し、路上も自転車・馬車・徒歩者で混雑した。ただしその時期、自転車で家とオフィスを
往復していたのはトアンだけであり、昼食の弁当をトアンのオフィスへ届けに行く使用人
は徒歩やトラムを使った。上の短編小説に描かれている通りだ。

1910年代から20年代にかけてのバタヴィアは、オランダ人が撮影したドキュメンタ
リー映画を見る限り、自転車の姿はちらほらとしか路上に出現しない。だから、今のガジ
ャマダ通りとハヤムルッ通りが自転車で混雑したと表現されては、現代人のわれわれにと
ってミスリーディングであるかもしれない。

そして1930年代の黄金期がやってくる。自転車の大量生産時代が始まると、上流階層
のステータスシンボルは自転車から二輪四輪の自動車へと移って行き、自転車はエガリテ
のシンボルに変化して行った。自転車通行者の大幅な増加によって、バタヴィアでは大通
りに自転車専用レーンが設けられて交通の混雑緩和がはかられた。


植民地政庁は東インドであらゆる道路交通機関に税金を課した。自動車や自転車ばかりか、
馬車のサドやデルマン、後に出現するベチャ、果てはただの荷車でしかないグロバッも役
所に登録して毎年ペネンpenengと呼ばれる税金を納め、その納税証憑を車両に掲示しなけ
ればならなかった。それを怠ると税金滞納者として摘発され、罰金を徴収された。

おまけに、それらの道路交通機関は夜間通行に際して灯火照明の設置も義務付けられた。
夜中に無灯火の車両が動いていれば、すぐに捕まって5フルデンの罰金が科せられた。5
フルデンというのは、当時の一般プリブミ庶民がなんとかひと月、食いつなぐことができ
た金額だ。灯火照明は最初、灯油やローソクを金属製ケーシングの中に置いて火を点けた
ものが使われた。初期の自転車も照明器具は常設されていなかった。1911年になって
はじめて電気式の照明が自転車に常設されるようになった。タイヤがダイナモを回転させ、
起こった電流がランプを点灯させるシステムのものだ。

日本軍政期がやって来ると、日本軍は四輪二輪の自動車と石油を大東亜戦争遂行のために
取り上げてしまい、庶民生活のために世の中に流されるものは極度に逼迫した。ジャカル
タの大動脈路を通るバスや路面電車はあっても、毛細血管路の端の方へ行く人にとっての
交通機関は人力を使って動くものにならざるをえず、おのずと自転車が脚光を浴びるよう
になった。あとはまだ数少なかったベチャだ。

インドネシアだから人力はたっぷりあったはずだと思うのは間違いで、日本軍は人力まで
ロームシャやヘイホにしてインドネシア社会から取り上げ、残った人間の別行政区への移
住も禁止したから、その時期ジャカルタにおけるベチャの増加はたいへん少なかったとい
うインドネシア人の論評もある。

ともあれ、一般庶民の交通機関は自転車が切り札になり、外出の足を自転車に頼る家庭が
増加した。一般庶民住宅地区には、自転車の修理や調整を行うbengkel sepedaが昨今のベ
ンケルモトルのように林立したそうだ。


インドネシア共和国独立後、1950年代から60年代にかけて、ジャカルタの庶民生活
の中で自転車が不可欠なものになっていたのは、今日のオートバイと変わらない。職場へ、
パサルへ、学校へ、映画館へ、たいていの場所へ行くのに自転車が使われ、自転車が集ま
って来る場所には駐輪場が用意されて番人が監視した。

駐輪場では施錠するのが普通だった。自転車泥棒事件も少なくなかったが、盗難の被害は
自転車本体よりもberkoと呼ばれるダイナモ発電機の方が多かった。ベルコとはひょっと
したらオランダのメーカーの名前かもしれない。[ 続く ]