「自転車は風の車?(6)」(2022年01月17日)

発電機が盗まれたのは、夜間の無灯火運行が罰金の対象にされていたためである。オラン
ダ時代に行われていたペネンの納税や滞納者に対する罰金なども、オルラ時代はオランダ
時代そのままに続けられていた。

オルバ期にもその制度は継続されたはずだが、社会での実効性が失われて行き、だんだん
とだれも法規を守らなくなって制度が崩壊して行ったのは興味深いポイントだ。植民地時
代には飼い犬の登録制度や狂犬病予防注射、あるいはラジオ税などといったものが社会制
度として実施され、オルラ政府もそれらを継続していた。ところがオルバ期になってそれ
らの制度が法規上は維持されても社会の中で同じように崩壊して行った事実をそこに並べ
て見るなら、オルラとオルバが単なるレジームの政治態勢の差だけでなく、社会運営の主
体者たる人間が持つ社会観にも影響を及ぼしたことが視野に入って来るだろう。確かにそ
れらは表裏一体の関係にあったと言えるに違いあるまい。


自転車に与えられたステータスシンボルの上位から下位への転落はオランダ時代から既に
始まっていたにも関わらず、1970年代ごろまで中下流層は自転車の有用性を手放さな
かった。ヨグヤカルタ・クラテン・ソロ・プカロガンなどで自転車は街中の交通機関の代
表選手になっていた。

そのころは、郵便配達夫も自転車で配達作業を行っていた。ジャカルタのパサルバルにあ
る中央郵便局から百人を超える配達夫が午前7時に一斉に自分の受持ち地区に郵便物を届
けるために自転車で出発するのである。


ジャカルタのタンジュンプリオッ港でojek sepeda商売が始まったのもそのころだった。
今でこそオジェッはオートバイが常識になっているものの、オジェッの元祖は自転車だっ
たのである。

港の敷地内を徘徊しているベチャとベモの動きが港湾業務の邪魔になっていることを理由
にして、タンジュンプリオッ港湾管理者が敷地内への立ち入りを禁止した。港の中で外部
交通機関が動いていたのはそれだけの需要があったからだ。港湾関係者の港内での移動ば
かりか、船員目当てに埠頭近くまで商品を提げてやってきて地べたで店開きする外部者も
たくさんいたのである。たくさんの埠頭でたくさんの船が出入りすれば、船員消費者の人
数もたくさんになる。こうして船に近い場所にパサルが出現した。

だだっ広い港の中で交通機関がなくなると、ひとびとはみんな困ってしまう。そこに自転
車オジェッが救いの神として登場したのだ。タンジュンプリオッ港の自転車オジェッの記
事が初めてコンパス紙に掲載されたのは1970年9月12日だった。そのころには、自
転車オジェッが社会現象として顕著なものになっていたのだろう。

ひとびとはこの自転車オジェッをtaksi sepedaやbonspedというしゃれた名称で呼んだ。
ボンスペッという西洋語の響きを持つ呼称は、何のことはないbonceng sepedaというイン
ドネシア語の短縮語だった。

港の内外で自転車オジェッ商売を行う者は登録を命じられ、5百人ほどが登録リストに載
った。だが登録しない者が4百人ほどいて、全体では9百から1千人くらいになっていた
ようだ。統計数字というのはいつも話半分に聞かなければならない。

かれら自転車オジェッ運転手は移動距離の遠近によって10または20ルピアの料金を客
から徴収した。運転手の一日の収入はだいたい100から200ルピアの間だったが、心
優しい乗客が重労働を可哀相に思って余分にくれたりすると、5百から1千ルピアくらい
の日収になることもあったそうだ。インドネシアならではの話ではあるまいか。その当時
のコメの価格はリッター当たり35ルピアだった。

しかしプリオッ港湾管理者は最終的に、港湾敷地内における自転車オジェッの活動に引導
をわたした。1972年6月1日付で出された指示書で自転車オジェッ禁止が宣告された
のである。オジェッはメトロポリタン都市にふさわしくないものであり、オジェッの廃止
は人間が人間の労働力を妥当でない報酬で搾取するシステムを消滅させる原則に合致した
ものである。どうやら、自転車オジェッはベチャと同一視されたようだ。[ 続く ]