「自転車は風の車?(10)」(2022年01月21日)

二輪自動車に対するもう一方の、東インド初の四輪自動車はベンツヴィクトリアで、スラ
カルタのススフナン、パクブウォノ十世がスラバヤの高級品輸入商社に1万フルデンを払
って取り寄せた。スマラン港を経由してスラカルタに届いたのは1894年だった。

バタヴィアのタンジュンプリオッ港にはじめて四輪自動車が陸揚げされたのは1903年
だったが、上述のようにそれから8年後には既にバタヴィア→スラバヤ自動車レースが行
われている。四輪車の普及がたいへん急ピッチで進んだことを、それが示しているように
わたしには思えるのだが、どうだろうか。それに比べると、オートバイの普及は緩慢だっ
たのではあるまいか。

植民地時代にオートバイは農園主や砂糖工場の上級職員たちが購入し、かれらは地元でオ
ートバイツーリングクラブを作った。Reading, Standard, Excelsior, Harley Davidson, 
Indian, King Dick, Brough Superior, Henderson, Nortonといったバラエティあふれる
ブランドが東インド市場を賑わせた。1916年から1926年までの新聞広告に、それ
らのブランドが頻繁に顔を出している。


1950年代から60年代にかけて、インドネシアの路上を走っているオートバイはすべ
て欧米製のものだった。日本メーカーの現地生産品が出回るようになったのは70年代に
入ってからだ。それまではJava, Norton, BSA, BMW, Hercules, Harley Davidsonなどが
人気ブランドになっていた。50年代末ごろからイタリア産スクーターが増加し、Vespa
やLambrettaが幅をきかせるようになった。同時に小型オートバイのDucatiやSolexあるい
はMobilletteも垂涎の的になったが、一般庶民にはなかなか手の届かない価格だった。い
や、そもそもオートバイ自体が一般庶民にとって高嶺の花だったと言えるだろう。だから
ミドルクラス以下の階層は自転車を握りしめていたのである。

オランダ製のソレックスは前輪のタイヤを駆動装置がはさんで回転させる仕組みになって
いたため、タイヤがすぐにすり減ったそうだ。それでも60年代のジャカルタでオートバ
イを持っていれば、夕方町中に繰り出して顔を売ることができた。BMWにでも乗ってい
れば、声をかけた女の子はすぐに後ろに座ったとアルウィ・シャハブ氏は書いている。

重い財布を持てる者のステータスシンボルであるオートバイの後にすぐに乗って来る女子
はcewek bensinという愛称で呼ばれた。ガソリンとの共通点は何だったのだろうか?

昨今モゲ(Moge = Motor Gede)と呼ばれている大型バイクの代表格であるハーリーデイヴ
ィッソンについて言うなら、第二次大戦前のバタヴィアでオランダ人もハーリーデイヴィ
ッソンクラブを結成して、ジャワ島内をデモンストレーションしていたようだ。

植民地警察も現場警官がハーリーを使い、左側にサイドカーを付けて走った。犯罪者を逮
捕すると、手錠をはめてサイドカーに座らせ、本部まで連行した。


ヨーロッパで人間が乗るための人力駆動車両は、二輪車より三輪車の方が数百年も先行し
ていたそうだ。走行するためにバランスを保つのは三輪の方がはるかに楽だからだろう。
古い歴史をたどると、ドイツ人身障者が1680年に自分の行動の足として手漕ぎの三輪
車椅子を作った記録にたどり着く。

西洋世界で三輪車はレクレーション・買物・運動などを目的にして作られ、人間や貨物を
乗せる商業目的のものはアフリカやアジアなど発展途上地域に出現したと英語ウィキぺデ
ィアは書いている。

インドネシアに三輪のベチャが出現したのも、ヨーロッパ人が持ち込んで来た二輪車がそ
の実現を促したのではないかとわたしには思われるのである。わたしは三輪車というアイ
デアの話をしているのでなくて、実際の形を持つ車両としてのベチャのことについて述べ
ている。[ 続く ]