「自転車は風の車?(11)」(2022年01月26日)

1920年代には、巷に増加し始めた二輪自転車を馬車のようにして荷物運びの経済性を
高めれば、ビジネス運営コストを低減できると考えた華人頭家が少なからずいたにちがい
あるまい。何しろ、馬を自分で飼うにせよ他人から借りるにせよ、馬を使うというのは金
がかかることだったのだから。

馬車の馬を車輪に替えれば三輪になるわけで、あとは前を一輪にするか二輪にするか、つ
まりは駆動力を前にかけるか後ろにかけるかの選択次第で形が決まる。そんなアイデアを
抱いた頭家が自分の店のために自転車を改造させて三輪車にした可能性は十分に推測でき
るだろう。

ベチャの発端はどうやら荷車としてのものだったらしい。荷馬車の代替品として始まり、
名前までが馬車をそのまま使ったようだ。インドネシアでベチャの語源は馬車の福建語読
みであるというのが定説になっている。そのベチャがインドネシア共和国の中で人間運搬
用交通機関に特化し、何十年にもわたって一世を風靡するようになった。

とは言っても、インドネシア型人間観のせいで人力搾取の一形態という観念がそこについ
て回り、ベチャを何十台も持って大儲けしている華人頭家とベチャを借りて運転している
痩せこけたプリブミ貧困労働者の対比がその観念の基盤に取り込まれて、経済問題・人種
問題・人道問題などがそこに引き寄せられ、ジャカルタをはじめとしてミナンカバウやバ
リでもベチャを行政が禁止するという事態が並行して起こった。


バタヴィアで、乗客を乗せて走るベチャは1930年代に出現したように思われる。オラ
ンダ人がバタヴィアの様子をドキュメンタリー撮影した映像を見ると、1910年代の路
上にいるのは蒸気トラムと馬車ばかりで、ほんのわずかに自転車と四輪自動車がちらほら
と走っているだけだ。しかも大通りでは自動車の方が多いように感じられた。

20年代の映画では、蒸気トラムと馬車が相変わらず路上の主役であり、四輪自動車がだ
いぶ増えて自転車も数を増しているが、グロドッやパサルスネンの風景にさえ乗客ベチャ
はまったく出て来ない。

そしてやっと、30年代の映画の中に乗客ベチャがちらほらと出て来た。ちらほらといる
ベチャは路上を列をなして走っている四輪自動車と二輪自転車の間で小さくなっており、
うっかりすると依然として少なくない馬車と見間違う可能性もなきにしもあらずという風
情なのである。どうやらジャカルタでベチャが激増したのは、インドネシア共和国になっ
てから起こったことのように思われる。反対に、スラバヤで植民地時代にベチャが急増し
たという話がある。

ムハンマッ・ソリヒン氏によれば、オランダ時代の1940年代にスラバヤ市民がベチャ
に乗るのを好むようになり、四輪自動車やドカルに乗るよりもベチャを使うことに情熱を
傾けた。おかげでスラバヤ市内に不穏な空気が漂ったそうだ。

落ち着いて穏やかな、オランダ人にとっての快適な都市生活がベチャにかき乱されたので
ある。オランダ人たちは町中での日常生活で、周囲を田舎者インランダーが三輪自転車で
徘徊する事態に直面した。植民地行政者が描いていた都市生活の理想像にベチャが冷水を
浴びせかけたのだ。そのときベチャは反植民地運動の一翼を担ったのだとかれは解説して
いる。


インドネシアでベチャは小規模資本生産者が自分の町あるいは特定地域向けに生産してき
た。そのために、地方ごとにベチャのスタイルに違いがある。日よけと本体の形状を一瞥
しただけで、どの地方のベチャだと見当をつけるひとだっているのである。

東ジャワのベチャは太目で飾り気たっぷりだが、バンドンのベチャは細目でオーナメント
は簡素だ。サドルの位置が高く作られているためにバンドンのベチャは運転手の視野が広
い。チルボンやインドラマユのベチャは最初客席の背もたれが直立型だったものが、19
90年代にラウンジチェアー型に変化した。またチルボンやインドラマユのベチャ引きは
サドルを外してしまい、長さ30センチ幅10〜12センチの木の板に薄くスポンジを貼
ってビニールで包んだものに替えている。そんなスタイルのベチャをジャカルタに持ち込
んだ者もあって、ジャカルタの乗客を驚かせた。[ 続く ]