「自転車は風の車?(12)」(2022年01月27日)

チルボン・インドラマユのベチャ引きは自分のベチャを飾るのが大好きで、前面を派手な
色のペンキで塗り、客席の背もたれにはスーパーマン・ランボー・ゴバンなどのヒーロー
やおふざけでトゥユルを描いたりもする。昔、大統領選挙のときにメガワティを描いてく
れという注文がたくさん来たとベチャに絵を描く画家のひとりは物語っている。テレビが
普及する前は、ワヤンのビマやガトッカチャなどの像が描かれていた。パゲランディポヌ
ゴロだって描かれるのである。


乗客用ベチャが望まれない子供として生まれて来たのは、どのような背景があったためだ
ろうか?荷物用ベチャが乗客用ベチャに転換された時に、やはり華人がそこにからみ、反
華人感情が人力搾取観念と相まってベチャをハラムな乗り物にしてしまったのだろうか?
ジャカルタ都庁が首都建設基本計画1965−1985を打ち上げて、都議会が1967
年5月3日にそれを承認したとき、ベチャは首都にあってはならないものと定義付けられ
た。都民の交通機関として行政がケアする対象からベチャは外されていたのである。

その線に沿って、アリ・サディキン都知事はベチャを16万台から3.8万台にまで削減
した。アリ・サディキンに代わったチョクロプラノロ知事はベチャ撲滅の手を緩めたため
に、ベチャ台数は5.5万台に増えた。次のスプラプト知事の時代、1985年1月1日
にジャカルタ無ベチャ都市宣言が出された。そのとき、ベチャ台数は7.5万台に膨らん
でいた。

無ベチャ都市を実現させるために、無ベチャ地区を設けてそれを徐々に拡大していくこと、
現存台数を増やさないために新規生産と新規流入を厳禁すること、活動地区システムを設
けてベチャの行動は首都5市の各行政区域内にとどめること、そのために各市のベチャを
色分けして違反車がすぐ分かるようにするなどといった種々の方針が開始された。そのよ
うにして、ベチャを徐々に減らして最終的に無ベチャ都市にしようという考えだったよう
だ。無ベチャ都市の無ベチャ地区にいるベチャは違反車だから即時没収することが公然と
できる。貧困民衆保護を叫ぶ民間団体に十分対抗できるだろう。


1968年3月21日のコンパス紙に出たベチャ取締り記事は、ベチャの存在そのものに
関するものでなく、納税忌避ベチャに対して行われたものだった。この納税は上で見たペ
ネンというオランダ時代以来行われて来た乗物税のことで、納税を行っていないベチャ数
百台がサリナビルの敷地に集められ、乗客用座席が取り上げられてから帰ることが許され
た。納税したら座席を返してもらえるということだったのだろうか?それとも単なるお仕
置きか?

存在そのものが非合法であるにもかかわらず税金を納めろというのは、大いなる矛盾では
あるまいか。このインドネシアの国税当局の発想はきっと他の国にまねのできないものだ
ろう。似たようなことは、汚職者が逮捕されたときにも発生している。汚職で手に入った
金は犯罪による収入であり、その収入を納税申告する者はまずあるまい。ところがインド
ネシア国税はそれを収入と見なして汚職者に脱税の措置を取るのである。


1970年6月にベチャ泥棒が逮捕される事件が起こった。都内のベチャは黄金時代に達
していて15万台とか16万台が動いていると言われていたのだから、盗んだベチャに安
値を付ければ飛ぶように売れただろう。イスティクラルモスクの表の道路脇で眠りこけて
いるひとりの男が発見されたのが事件の発端だった。男はベチャ引きであり、その男のベ
チャをふたりの別の男が漕いで走り去ったのを目撃した者もいた。ベチャ泥棒は適当にベ
チャに乗り、しばらく走らせたあとベチャ引きに食べ物を勧め、麻酔薬か催眠薬かを混ぜ
たその食べ物をベチャ引きに食べさせるのが犯行の手口だった。[ 続く ]