「ジャワ島の料理(60)」(2022年02月03日)

アシナンボゴールとアシナンブタウィについては、アシナンボゴールの代表選手が果実で
あり、アシナンブタウィの代表選手は野菜だということになっている。しかしながら、ア
シナンボゴールの店で野菜のアシナンも食べることができるし、アシナンブタウィの店で
果実のアシナンを注文しても少しも変ではない。もちろん店側が両方用意していればの話
になる。

ボゴール植物園へ遊びに行ったとき、わたしはたいてい動物学博物館の向かいにあるアシ
ナンボゴールの店で野菜のアシナンを食べるのが習慣だった。そこはカンプンチンチャウ
通りの東側だ。グーグルアースのストリートビューを見ると、その店はいまだに健在であ
るようだ。

アシナンボゴールの由来に華人が関わっていたという話がある。バイテンゾルフの華人カ
ピタンTan Goan Piauw幼名Tan Eng Tjoenは1835〜1889年の生涯をバイテンゾル
フで送った。スルヤクンチャナ通りに邸宅を構えたタン・コアンピアウは、バイテンゾル
フに移住して来た陳氏族が当座の生活を営めるよう、Gedung Dalamという建物を作った。
建設は1875年に開始され、1883年に完成した。

グドゥンダラムという名の、この一種の寮はそのうちに中華文化会館の趣を呈するように
なり、インドネシア共和国独立後もスルヤクンチャナ通りを中心とする華人街の文化セン
ターの地位を守った。1970年代になって、このグドゥンダラムで果実のアシナンが作
られて販売され、それが人気を集めてアシナンボゴールの名称で呼ばれるようになった、
というのがその由来譚だ。つまり、華人カピタンが寮を作り、およそ百年後にその寮で華
人が果実アシナンを作ったというストーリーである。


ボゴール特産の甘い間食もある。スンダ料理ペペスの姿をしているこの食べ物は名前から
してpepes sagu pisang。ペペスの作り売り商売人がこのおやつをバリエーションに加え
たのだそうだ。

スルヤクンチャナ通りのフードセンターでペペスの作り売りをしているトゥン・ギョッテ
ィさんは、炭火コンロ四つに網を敷いてさまざまなペペスを焼いている。キノコ・チリメ
ン・オンチョム・魚・ニワトリ・豆腐・オタコタなどのバナナ葉に包まれたペペスがサグ
ピサンと一緒に焼かれている。

かれは姑から60年くらい前にペペスサグピサンの作り方を教わり、その荷を担いで町中
を行商に回っていた。息子が大きくなると、息子も行商に出た。しかし寄る年波には勝て
ず、1987年に固定的な場所で店開きすることにした。息子たちもそれに倣った。

七人の子供たちのうちの次男と四男が父親の仕事を継ぎ、スルヤクンチャナ通りのフード
センターとシリワギ通りのグドゥンダラムでペペスの作り売りをしている。スルヤクンチ
ャナ通りのフードセンターでは父親と四男が共同で働いているのだ。いや父親のトゥン・
ギョッティさんはもう引退して四男が後を継いでいるから、父親がその手伝いをしている
と言うほうが正確だろう。


売れ足の一番良いのがサグピサンで平日には150個、休日だと250〜300個が一日
の売上だとトゥンさんは言う。他のペペスは一日に50個くらいが売れるそうだ。サグピ
サンのファンは主にジャカルタからボゴールに遊びに来るひとたちだとかれは言う。

トゥンさんはこのペペス売りで自分の家を建て、子供たち全員を育てて学歴を持たせた。
子供の一人は大学を卒業してボゴールの大手企業で働いている。

四男のダニエル・トゥン・チューテッさんは妻のララさんとペペスの仕込みを毎日行う。
その仕事に四人を雇用しており、6人が商売物作りに精を出している。朝はパサルへ行っ
て材料を仕入れ、それから夕方までかけて材料を加工するのだ。ララさんはサグピサンの
作り方をこう説明した。

材料はヤシの果肉・モチ米・米粉・サゴ・ヤシ砂糖・バナナ。バナナはピサンアンボンル
ムッまたはピサンラジャ。各素材を既定の分量で混ぜてからバナナ葉で包む。包んだもの
をコンロの上で焼く。焼き上がったものは保温器に入れる。

店で焼くペペスサグピサンは、焼き上がってから保温器に入れることもなく、どんどん客
の手に渡る。焼き上がりを待つのを好まない客は、電話をかけてきて「取っておいてくれ」
と頼むそうだ。店へやってくれば、取っておいてもらったサグピサンをすぐに受け取って
帰れるのだろう。[ 続く ]