「ジャワ島の料理(61)」(2022年02月04日)

ジャワ島最後の締めくくりはブタウィ料理だ。ジャカルタの土地と文化にエスニックの色
彩を持たせる場合、ブタウィという言葉の方がフィットする。BetawiはBataviaが音変化
したものだ。

スンダ王国の時代にSunda Kelapa(あるいはKalapa)は王都Pakuan Pajajaranの外港だっ
た。パクアンパジャジャランは現在のボゴール市の一部であり、王都とスンダクラパ間の
街道はチリウン川がその役割を担った。スンダ王国の高位者が遠方へ旅するときは、チリ
ウン川を下ってスンダクラパに至り、そこから海洋航行船で海岸線を旅した。

スンダ王国の最大の商港はBantenだったが、スンダクラパは政治的軍事的に重要な港であ
り、スンダ王国にとってはバンテンに劣らない重要性を持っていた。チルボンとドゥマッ
の連合軍がバンテンを征服したあと、バンテン軍が1527年にスンダクラパを陥落させ
てジャヤカルタを建設したのは、ポルトガルの足場作りを阻止することと共にスンダ王国
の力を弱めることを目的にした戦略の実践であったのは疑いないだろう。

1619年にジャヤカルタがヤン・ピーテルスゾーン・クーンに滅ぼされてVOCの本拠
地バタヴィアに変わったとき、地元民だったスンダ人はバタヴィア城市から追い払われ、
華人・インド人・アラブ人・ムラユ人などの自由人とバンダ人・バリ人などを主体にする
奴隷たちが、白人コロニーとされたバタヴィア城市の周りを埋めた。しかし多少ともスン
ダ人がその中に混じった可能性はあっただろう。バタヴィアという新興都市に関わってい
れば、生計の糧を得る機会ははるかに多かったに違いないだろうから。

かつてブタウィ人奴隷起源説をオーストラリア人学者が言い出し、ブタウィ社会から猛反
発を食ったことがある。バタヴィア城市でのさまざまな仕事をさせるために城市内とその
周辺には奴隷と異民族自由人が住んだ。しかしその外側の空間はスンダ人の世界が取り巻
いていたのである。おまけにマタラム王国のバタヴィア進攻のあと、バタヴィア近辺の地
にとどまったジャワ人もたくさんいて、ブタウィオラ人というバリエーションも生まれて
いるのだ。

バタヴィアの都市空間が外へ広がって行ったときにスンダ人の空間との化合現象が起こっ
た可能性は小さくあるまい。バタヴィアを凝視するあまり、その外側を取り囲んでいた空
間が見落とされたなら、全ブタウィ人はかつて奴隷だったバリ人やバンダ人の子孫ではな
いかという視点が生じることもありうるだろう。しかしかつて奴隷だったバリ人やバンダ
人がそれを取り巻くスンダ社会に吸収されていったという視点に立つなら、そのシチュエ
ーションの主客はひっくり返る。レーシズムはその視点の間を揺れ動く。


クーンは最初、バタヴィア城市をヨーロッパの飛び地にしようと考えた。アジアの中の完
ぺきな白人コロニーだ。そこはVOCという会社の所有地であり、会社の現地支配人がそ
の空間をどのように秩序立てようが、会社重役会が承認すれば実現する。会社にとっては、
バタヴィアがたくさんの富を生み出すかぎり、現地における社員のコミュニティ生活を現
地支配人が良識の範囲内で仕切ることに異存はなかったようだ。

ヨーロッパから送り込まれてくる社員のクオリティをクーンは熟知していた。あの時代に
VOCに雇われて未開の土地へやってくる人間がどんな種類のひとびとだったかというこ
とはクーンが自らに問えば答えが出る話だっただろう。現実にそんなひとびとをクーンが
適材適所で使っていたのだから。そしてクーンはバタヴィア城市内に住むヨーロッパ人社
員や退職者たちを「社会のクズ」と呼んでいた。

バタヴィアを多少ともヨーロッパの都市並みのレベルに引き上げたいと望んだクーンは重
役会に対し、白人コロニーにふさわしい良識と人格を持つひとびとを移住させるよう要請
した。そのようなひとびとは家族を伴って移住するのが望ましい。更に、すべてが独身の
VOC社員が家庭生活を営めるよう、若い娘たちも送ってほしい。

自分が描いているバタヴィア城市の理想像を示すために、クーン総督は年若い妻を伴って
赴任して来たのである。その妻と妹がバタヴィアにはじめて移住したヨーロッパ女性だっ
たと記録されている。[ 続く ]