「ジャワ島の料理(62)」(2022年02月07日) しかしクーンの計画は無い物ねだりに終わってしまった。「社会のクズ」呼ばわりされる ような人間が発奮してやってくる土地に家族連れで移住して、そこの町の建設と運営に携 わろうという奇特な人間は、理性と知性の勝った階層の中にほとんど見つからなかったよ うだ。 VOC重役会はオランダの孤児院から集めた年頃の娘たちを何回か船に乗せてバタヴィア に送った。ところが数回の花嫁船で送られて来た娘たちは、VOC社員の貞淑な妻になっ て健全な家庭を築こうとするような種類の人間でなかったことがバタヴィアで明らかにな った。金狂い男狂いがマジョリティを占めていたそうだ。クーンがバタヴィア住民に出し たさまざまな生活上の規則の中に、キリスト教徒女性と異教徒の性行為を禁止するものが 見られる。 クーンがそのような禁令を出さなければならなかった背景に何があったのか?その答えは 言うまでもあるまい。現に、この規則が適用されて罰せられたキリスト教徒女性の記録が 残されている。 結局、クーンの目論見は実現せず、バタヴィア城市内にニャイを含めた奴隷階層のコミュ ニティが定着してしまった。そのコミュニティがプリブミの文化で営まれたことは論を待 たない。 バタヴィア城市のフィジカルな街づくりに始まって経済建設のための諸活動に至るまで、 クーンはプリブミを使わずアジアの異民族を使った。バタヴィアの街の治安を重要視する クーンの用心深さがそこに表れている。最終的にマタラム王国の大軍勢がバタヴィア進攻 を行った事実を見るかぎり、クーンの状況分析の目が冴えていたことにわれわれはうなず かざるを得ないだろう。 バンテン時代にクーンは華人の経済活動における図抜けた能力に瞠目した。かれはバンテ ンの華人カピタンであるソウ・ベンコンと親交を結んだ上、バタヴィアの基地化に伴って ソウをバタヴィアに招き、VOC活動の下請けとして華人の力を重用したのである。 キリスト教化したアンボン人やフィリピン人・日本人などもバタヴィアのVOCが雇用し て、労働作業や軍事と治安の要員に使った。初期の日本人は傭兵がメインであり、後に鎖 国に伴ってバタヴィアに移住して来たキリスト教徒日本人はVOCの会社活動の下働きに 使われたようだ。 奴隷はコロマンデルやベンガルからバタヴィアに連れて来られた。オランダはスペイン= ポルトガルと戦争中だったために、ポルトガルの兵士や住民を捕虜にすると奴隷にしてバ タヴィアに連れて来た。そのほとんどはポルトガル人とアジア人のプラナカンであり、メ スティ−ソと呼ばれたひとびとだ。奴隷にしたメスティ−ソがプロテスタントに信仰を移 せば、オランダ人はかれらを奴隷身分から解放して自由人にした。ヌサンタラの諸種族も バリ・マカッサル・スンバワ・ティモールなどから奴隷が集められた。ヌサンタラの奴隷 は、VOCと戦争して捕虜になった者や、バリのように王によってVOCに売り飛ばされ た領民もたくさんいた。 VOCは最初プリブミの諸種族やアジアの他民族を、地域を区切って個別に居住させ、そ のコミュニティの責任者を任命して自治を行わせた。責任者はカピタンと呼ばれた。カピ タンは後にその下位者レッナン、更に上位者マヨールに挟まれることになる。その種族別 自治システムは元々プリブミ諸王国が行っていたものであり、VOCは東南アジアに流布 していた慣習的システムに倣ったにすぎない。 それらの種族別居住地域はたいていカンプンXXと呼ばれた。今でもKampung Makassar, Kampung Bali, Kampung Ambon, Kampung Melayuなどの地名があちこちに残っている。し かしKampung Arab, Kampung Keling, Kampung Cinaなどが地名として定着することはなか ったようだ。それらは普通名詞として使われているだけのように見える。その中で、華人 居留地区だけはジャワ語のPecinanがよく使われる。[ 続く ]