「ジャワ島の料理(63)」(2022年02月08日)

それらの種族別居住地域は植民地時代末期に外部からの人間の混入が進み、名称とそこに
ある文化とは裏腹に、居住者は既にビンネカトゥンガルイカの方向へと進展していた。そ
して統一インドネシアを看板に掲げたインドネシア共和国が、植民地支配者の分割統治方
針を象徴するような種族別居住地域制度を全廃してしまった。

とはいえ、地名として残ったものもたくさんあるし、その地区にしみ込んだ文化はそれぞ
れの地区の特徴を何世代にもわたって維持させた。ジャカルタのタナアバン地区、中でも
クブンパラKebun Pala、あるいはジャティヌガラのクブンナナスKebun Nanasなどはアラ
ブ文化の中心だ。コタと呼ばれているグロドッGlodok地区からパサルパギPasar Pagi〜ペ
タッスンビランPetak Sembilan一帯、パサルスネン・パサルタナアバン・パサルバルなど
の周辺地区、あるいはまたクニガンKuningan地区などは中華文化の色濃いエリアだ。北ジ
ャカルタのトゥグ地区はポルトガル文化が優勢だ。そのように地区によって人種別の色彩
がいまだに強く残っている場所があり、料理にもその傾向が反映されている。

オランダ人と同様に昔は、華人・アラブ人・インド人たちも男だけが船に乗ってヌサンタ
ラにやってきたから、プリブミ女性を伴侶にして家庭を持つ者が多かった。オランダ人と
華人は特にニャイと呼ばれるシステムを愛用した。ニャイについては拙作「ニャイ」植民
地の性支配:
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libnyai.html
をご参照ください。

そのようにして、それぞれの文化でプラナカン社会の歴史が始まった。たいていの場合は
混血子孫が父系性の枠に入れられて、父親の文化・人種に所属する意識が子孫の間で強か
ったように見える。ただしプリブミ社会に入って行った混血子孫も数えきれないほどいる
ので、「インドネシアの○○系住民人口はXX万人である」という統計数値を客観的な血
統基準と考えると大間違いになるから気を付けたほうがよい。たいていの統計数値は、本
人が自分の所属文化をどう見ているかという自己申告に基づいているのだから。

ヌサンタラの諸種族は男も女も各居留地区に移住して来たので、渡来民族のような状況に
ならなかったようだ。それでも地縁的に入り混じって住めば、異種族間結婚の事例は瞬く
間に増加したように思われる。


そのような民族・人種の融合が文化の融合を容易に引き起こした。文化の社会的発現形態
である衣食住が文化融合によってバリエーションを生み出すのである。その衣食住にもっ
とも深くかかわっているのが女性であるなら、女性こそが文化融合の立役者だと位置付け
ても軽率ではないだろう。

一方、ニャイシステムを愛用したヨーロッパ人や華人には、その衣食住生活に関わるプリ
ブミ奴隷や使用人の文化が影を落として、程度の差こそあれ、そこでも文化融合が発生し
た。

ニャイであれ、正式婚姻した妻であれ、純血ヨーロッパ人のトアンが教えた料理をプリブ
ミ女性が作り、トアンはそれを邸宅の食堂で正餐のための食器を使って食べる。一方、そ
のプリブミ女性はトアンの食事の相伴をしてもしなくても、自分のためのローカル料理の
食事を台所で使用人や自分の子供と一緒にふざけ合いながら手づかみで食べていた。そん
なカリカチュアは、植民地時代を物語るストーリー中にたくさん登場する。

プラナカンである子供たちは、成長すると父親がヨーロッパ文化を身に着けさせようと努
めるから、おのずとバイカルチャー人間になっていく。ひとりの人間の中に文化の融合が
収まることになるのだ。[ 続く ]