「ジャワ島の料理(64)」(2022年02月09日)

近代のオランダ領東インドでオランダ人と呼ばれたひとびとの大多数は欧亜混血者の子孫
だった。それは華人も違わない。19世紀の東インドにいるオランダ人のライフスタイル
はヨーロッパとヌサンタラの融合体であり、裕福な家庭もそうでない家庭も家の中での生
活はたいてい、サルンを履き、昼寝をし、レイスタフルの食事を好んで食べていた。女性
はサルンとクバヤの服装に慣れ親しみ、オランダ人好みのバティック模様や、華人好みの
サルンクバヤファッションがかれらのアイデンティティを示すのに使われた。

特に華人プラナカンの中には、漢字や言語の使用あるいは信仰などといった父方の先祖代
々伝えられてきた文化から離れてムスリムになり、ムスリム名に名前を変えてプリブミ社
会で生きるひとびとも多数現れた。

最初、バタヴィアの奴隷の大多数を占めていたバリ人の子孫も、時の流れと共にブタウィ
人の社会に溶け込み、バリ文化は跡形も残さずに消え去って、ブタウィ文化の中に散らば
る分子に変わってしまった。

スンダ文化を基盤に持っていたとはいえ、あまりにも多種多様な文化が溶け込んだブタウ
ィ文化は、言語・衣服・音楽・食べ物などあらゆる面に関してスンダとはまったく異なる
ものになった。そこにきて、19世紀後半から20世紀前半にヨーロッパと中国から女性
の東インドへの移住が進んだ。1869年のスエズ運河開通がヨーロッパから東インドへ
の人間の移住を促し、たくさんの女性がヨーロッパの最新文化を持ってやってきて、ヨー
ロッパでのライフスタイルを東インドで続けようとした。皮肉なことに、20世紀前半に
なってバタヴィアの中のメンテン地区のような一部のエリアで、やっと名実ともに白人文
化のコロニーが花開いたのである。墓石の下でクーンは涙をこぼしたに違いあるまい。

かの女たちは東インドに出来上がっていたプラナカン社会に、それと並立し、あるいは影
響をもたらす文化を持ち込んだ。ブタウィ料理の諸文化融合の結晶が、また豊かさを増す
ことになった。


人間に付着している文化に融合が起これば、味の世界も変貌を遂げることになる。一般論
として、華人の基本ブンブはニンニクとショウガだけだったとタングランのベンテンヘリ
テッジ博物館発起人ハリム氏は物語る。ヌサンタラにやってきた華人はインド人が持って
来た赤バワンを知り、それを基本ブンブに加えた。だから華人プラナカン社会の基本ブン
ブはニンニク・ショウガ・赤バワンで構成されており、かれらはそれをbumbu cinと呼ん
でいる。インドネシアの華人プラナカン料理はブンブチンが基本になっているのだ。

あるいは中国醤油とジャワのヤシ砂糖が出会って、ケチャップマニスが誕生した。これも
文化融合の一例だ。中国醤油もジャワの甘醤油もkecapが現地語である。それらを区別す
るために、甘くない中国醤油はケチャップアシン、甘いのはケチャップマニスと言う。ト
マトケチャップはインドネシアでsaus tomatと呼ばれて、ケチャップという言葉が使われ
ない。

インドネシア語になったケチャップという言葉は元々華語だったという話になっている。
由来を調べると、広東語の茄汁という説が見つかった。発音は/ke jap/だそうだ。しかし
茄はトマトを示す蕃茄に由来しているのではないのだろうか?広東語の茄汁がトマトケチ
ャップの音写であるなら、インドネシア語kecapは元々中国醤油だったのだから、どうし
てそのような混乱が起こり得たのだろうか?この説の発案者は現物を忘れて文字と音だけ
を頭の中で結び合わせていたのかもしれない。

もうひとつの説は鮭汁で、福建語発音は/koe jap/であり、今で言う魚醤を想像させてく
れる。東インド在住華人のマジョリティを占める福建人がわざわざ広東語をプリブミに教
えて定着させた可能性は低いように感じられるので、わたしの印象は鮭汁の方に傾くのだ
が、普通の醤油がなかったわけでもあるまいし、福建人の醤油である豆油tau-iuにならず
にケチャップになってしまったのはドウシテカ?[ 続く ]