「Engdonesian(前)」(2022年02月08日)

ライター: 人文科学者、アリエル・ヘルヤント
ソース: 2005年10月30日付けコンパス紙 "Engdonesian"

インドネシア民族と同様に、インドネシア語も本質的にガドガド言語、つまりごちゃ混ぜ
言葉だった。indo bin blasteran, binti hibridである。われらがインドネシア語の中に
ムラユ・ジャワ・インド・中国・アラブ・ポルトガル・オランダ・イギリス等々の語彙が
とうとうと流れている。これ自体はまったく欠点でも汚点でも災厄でもない。かと言って、
決して稀で特異なメリットでもない。それは現代のすべての民族と言語が共通に持ってい
る特徴なのである。

最初は研究者の目に、インドネシア語の本体にそぐわない言葉が出入りしたり留まってい
たりするように映るのだが、それは偶然でもなく混乱でもないのだ。そこにはパターンが
存在し、そのパターンは時代によって変化する。


インドネシア青年たちが書いたオランダ語の論説を検討する会議から青年の誓い1928
が生まれた。その時代の学生たちはヨーロッパ語を完璧にマスターしていた。自分個人の
キャリアのためばかりか、民族にとってのメリットと進歩、つまり社会のモダン化を目的
にして。

植民地時代の学校を卒業した知識人が二つ三つのヨーロッパ語を同時にマスターしている
のは普通の光景だった。ただしどれほどそれらの言葉に堪能であっても、かれらにとって
それらは外国語だったのである。必要なときに使うだけのものであり、必要でないときは
忘れた。平常の生活においては、自分の母語であるヌサンタラの地方語を使っていた。

アイロニーはそこに生じた。スカルノ大統領が演説するたびに、さまざまな外国語やヌサ
ンタラ地方語の語彙が乱れ飛んだ。だが米国が主導する西欧帝国主義政治にもっとも激し
く敵対した大統領がかれだったのである。かれは西洋ポピュラー音楽の流入に反対し、西
洋ポップスを演奏したミュージシャンを監獄に入れた。


オルバ期にもアイロニーは続いたが、内容は逆転した。
独立革命以後、特にオルバレジームが全盛を謳歌するようになってから、西洋、中でも米
国の資本とポピュラー文化が国内に充満した。コカコーラだけでなく、スローガンや宣伝
もだ。ハリウッド映画だけでなく、ジャズ・ロック・ポップトップ40・ソウル・レゲエ
・パンク・ヒップホップに至るまで。前のレジームの革命意識とは正反対に、オルバレジ
ームになってから国内諸都市の風景に英語が彩を添え始めた、アメリカ英語の塾が軒を並
べて、昔の時代の政党宣伝に取って代わった。

皮肉なことに、そんな世の中の姿のかたわらで、知識人の間でフォーマルな英語を使う能
力に顕著な減退が起こった。もっとひどいことに、オルバレジーム指導層はインドネシア
語を話すことすらたいへんで、ましてや書くことにおいておや、というありさまが見えて
来た。

だから国家権力の美酒に酔いしれてから10年経った1975年に、オルバ政府が良好で
正しいインドネシア語の開発育成プログラムのために一大予算を用意したことは、何らお
かしいものではない。その結果は?レジームが終焉するまでインドネシア開発の父スハル
ト大統領は良好で正しいインドネシア語を話すことさえ四苦八苦していた。ましてや、外
国語においておや。[ 続く ]