「ブレのメモ書き」(2022年02月10日)

ライター: バリ島在住文化人、ジャン・クトー
ソース: 2012年1月22日付けコンパス紙 "Catatan Si Bule"

インドネシアはパラドックスに満ちた国だ。ひょっとしたら、ブレと呼ばれているわたし
の興味を惹きつけているのがそれであるかもしれない。想像してみたまえ。TOEFLテスト
で600点を超えることを商業省が従業員に義務付けたのだ。

英語に対するオブセッションは今に始まったものではない。わたしはそれを良く知ってい
る。場所がどこであれ、何かを尋ねるために路上のひとに近付くと、そのひとの反応はま
ず微笑む。そして外国語の文章を述べる。You take xxx road to right, Mister.

ぎこちない滑舌のそんな英語の返事を耳にするとフランス人のわたしは、自分のインドネ
シア語がどれほど達者であるかを示して、そのひとを助けてあげたい気持ちになる。結局
のところは、異邦人扱いされたくないということなのだが。それは精神的な負担になるの
である。そこに問題が生じる。わたしがインドネシア語に執着すればするほど、相手も英
語を必死になって使う。現実に、かれの英語はたいていひどいものであるにもかかわらず、
だ。

その通り、この誤解は典型的なものだ。相手にとって私自身がそれほど異邦人でないこと
を示したいだけなのに、相手は自分が田舎者でないことを一生懸命示そうとする。わたし
にとっては、インドネシア語を使うのがgo internationalなのだが、相手にとってのgo 
internationalは英語を使うことなのだ。西と東の悪循環だ。よそ者であるわたしは頭を
掻くことになる。う〜ん。

< 政治家 >
選挙を念頭に置いた政治家たちの話を聞いてみるがいい。stakeholder, governance, あ
るいはsocial responsibilityなどのハイカラな言葉が口からハラハラとこぼれ落ちる。

それらのハイカラ言葉が、プグルの町はずれの小学校を出ただけのバギオさんの頭の中で
どのようにこだましているのかを考えたことはあるのだろうか?バギオさんにはその意味
が分からないが、神秘で神聖な何かを想像しているにちがいあるまい。政治家がそうして
いることの目的がそれなのだ。神聖視されること!

権威ある催事に文化人として参加するよう依頼されたときに、わたし自身がクライマック
スを体験した。わたしがインドネシア語でスピーチする唯一の講演者であり、他のインド
ネシア人がみんな英語で講演するようなことはしばしば起こっている。先述の田舎者の状
況と同じだ。

英語でスピーチするひとびとの理由は、たまたまそこに来ているひとりふたりのブレを尊
重して行うのだそうだ。いいだろう。しかし、会場を埋めているインドネシア人作家・詩
人・芸術家・知識人の大部分は外国語で教育されたわけではないだろう。かれらをも尊重
し、そして講演の内容を理解してもらう必要があるはずだ。

この問題をクリヤーに説明するのに、セミオティック理論を持ち出す必要はあるまい。階
級理論あるいはカーストでもいい。要するに、外国語の使用が持てる者階層の社会ステー
タスシンボルにされているのだ。その言語を理解しない知識人・芸術家等々は最上位階層
へのアクセスの梯子を外されるのである。なぜなら、持っている金の量が比較にならない
ことの他に、英語の中に存在する、最上位階層が握っている象徴世界のスタンダードを身
につけていないからだ。英語に弱い者は知性面で愚者と同一視される。バギオさんと同じ
ように。

グローバリゼーションという新しい、そして植民地時代という比較的新しい歴史の中で、
その現象は容易に説明がつく。たいていそれを行うのは上述の愚者インテリたちだが、そ
のためにヘゲモニー理論が引き合いに出され、グラムシ、ファノン、アルチュセルたちの
霊魂が地上に呼び戻される。しかしその現象の真の根がもっと深いところにあったら、ど
うするのか?たとえばムダンクムラン物語の中にあるインドの僧アジ・サカ神話だ。かれ
はプリブミのラッササを追い払い、地元の女を妻にし、文字を有する文明を広めた。

要するに、知識・真理・その他のパワーの源泉は外から入って来たのである。それどころ
か、外部者上位の状況を批判するのに、また外にある要素を借りて来た!この現象のもっ
とも荘厳な頂点が青年の誓い1928である。すべての討論がオランダ語でなされたのだ
から。
オルヴォワール。おっと、失礼。わたしはフランス語を言ってしまった。へへへ・・・