「ブレとレーシズム」(2022年02月11日)

ライター: バリ島在住文化人、ジャン・クトー
ソース: 2012年4月1日付けコンパス紙 "Hantu Tak Berbentuk"

自分が持っているレーシストの本性にわれわれは突然気付く。しばらく前、リバプールサ
ッカーチームのスアレス選手のレーシスト的表明のニュースを読んでいるとき、わたしに
それが起こった。わたしは突然気付いた。わたしが今書いているこのコラムに6週間前に
載せた一文がタイトルからしてレーシスト的だったことが脳裏をよぎったのである。その
タイトルとは「Catatan si Bule」。

面白いでしょうが。わたし自身がブレであるというのに、わたしがしばしばブレと呼ばれ
ることへの思慮もなく、何も考えないでそのタイトルを付けたのだから。チナとかジャワ
とかの言葉で他人を呼んでごらん。呼ばれたひとはきっと嫌な思いをするだろう。なのに
どうしてわたしはブレと言われても嫌な気持ちにならないのだろうか?どうしてインドネ
シアにいるブレ人種は、本源的にブレという言葉が自分を卑しめるものであるにもかかわ
らず、それを感じないままに自分を大いに卑しめる言葉で呼ばれたり、また自分を呼んだ
りする唯一の人間でありうるのか?そこにレーシズムは存在しないのだろうか?

わたしがブレと呼ばれたなら、不愉快になってしかるべきだろう。ブレとは本来の意味が
白子であり、皮膚にメラニン色素を持っていない人間を指して使われているのだから。小
人と同じ、姿の醜い人間のカテゴリーに属し、昔の王侯貴族がパレードを行うときにご主
人様の周囲で跳ね回る者たちのひとりだったのだ。もちろん、ブレの語が侮蔑の意を含ん
で使われることも当然ある。しばしばローカル新聞に登場するDua Bule Ditangkap dengan 
5 kilo SSのような見出しから、Rina kawin sama bule.(orangすら付けられていない)
とRonny menikah dengan wanita asing.の使い分けにいたるまで。


それらはすべてレーシズムなのだろうか。よく分からない。buleという語の用法が始まっ
た歴史を見てみるなら、必然性があるにはあるのである。白人をlondoと呼んでいた時代
が変化して、オランダに由来するロンドが現実との乖離を引き起こしたためにブレが使わ
れ始めた。tuanの語は独立インドネシアの状況にそぐわない封建的な語感を持っている。

ブレの語は歴史的社会階層を逆転させる印象をもたらすために、特に知識層に普及した。
白人は支配者で優良人種だった立場から、インドネシアの主権に屈服するべき普通の人間
に落ちたのである。依然としてthe otherを構成するもののひとつではあっても、今では
インドネシア性の名のもとに行われている。だからロンドとトアンの言葉が描き出してい
た感覚の開きが、ブレによって大幅に狭められたのは確かだ。白子という意味でのレーシ
スト的蔑称によって「われわれ」が持つ平等性に近付いたようなものだ。それでも、やは
りおかしいだろう。レーシズムを感じないかな?

「チナ」という蔑称はどうだろうか?「ブレ」と呼ばれるよりも「チナ」と呼ばれるほう
がヘビーではないか?チナが感情を害する目的で使われているのに対して、一部のカンプ
ンでブレの語はそのような使い方がなされていない。華人が当然そうしていると見られて
いるような、経済を握ったり排他的な生活をしているという非難の対象にブレはされてい
ない。ブレに対する先入観はより軽いものだ。近い者に嫉妬し、遠い者と手を握るという
のは昔からある。


この反応は実に面白い。政治でもなければ抗議表明でもなく、ただの言葉なのだから。他
人からotherにされるよりも自分をotherにしてしまう。華人は今やそれを行っている。今
はみんなが自分をチャイニーズと認めるようになった。その名前に変わることによって自
分のアイデンティティを自分が掌握し、蔑称から解放される。ブラヴォー!しかしその感
情解放は十分に効果的なのだろうか?

ならば、インドネシア型レーシズムはどこから始まるのか?歴史がその鍵だ。インドネシ
アは19世紀のヨーロッパやヒトラー時代のような人種理論を伴う構造的な史的レーシズ
ムを生んだことがなく、そして今でさえヨーロッパに見られるような人種政治論が存在し
ない。インドネシア型レーシズムは幽霊のようなものだ。それは、はっきりした形を取ら
ず、名称も持たないで、揶揄・嘲笑・社会暴力の間に出没する一般的先入観の姿をしてい
る。時にはブレに向けられるような軽く意識されないものになり、また時には跡形も残さ
ずに消え去る直前に、瞬間的に燃え上がるものにもなる。

反生産的にならず、また対抗されるべきものを生み出さないようにしてこの幽霊に対抗す
るにはどうすればよいのか。頻繁に行われているような民族主義的スローガンを叫ぶだけ
で十分なのだろうか?筆者が上で示したように、ユーモアと覚醒があれば十分ではあるま
いか。