「ジャワ島の料理(66)」(2022年02月11日)

クトゥパッサユルは未熟パパヤの実を削り、長豆とプテと干しエビを加える。クトゥパッ
サユルの代わりにスムルカンビンやオポルアヤムにすることもある。それらには必ずブタ
ウィ料理のシンボルであるserundengが振りかけられる。スルンデンとはヤシの果肉フレ
ークやアズキ豆を煎ったり炒めたりしたものだ。

一方でキリスト教徒の常食すら、ブタウィムスリムは少しも臆さずに食べている。pindang 
seraniのスラニとはキリスト教徒を指し、昔は限定的にプロテスタントに移ったポルトガ
ル系のトゥグ地区住民を意味していた。いつごろ、どのようにして、そんな名前の料理を
ブタウィムスリムが食べるようになったのかはまったく分からない。ただ少なくとも、ス
ラニという名称の付けられた料理を、ムスリムが意味も知らずに食べているわけでもある
まい。


ジャカルタのシャリフヒダヤトゥラ国立イスラム大学人類学者は、ブタウィ料理は長い歳
月をかけて文化融合が生み出したものだ、と語った。たとえばラクサはムラユ文化・中華
文化・インド文化が混じり合ってできあがったものだ。

ふたつの文化の融合だけでも完成度の高い料理が誕生するまでに長い歳月を要する。ブタ
ウィのようにもっと多数の文化が混じり合う場所では、優れた料理ははるかに長い歳月の
果てに出現することになる。しかもこのプロセスは終わることがない。現在どれほど素晴
らしい料理になっていようが、この先それがさらに変化し、もっと素晴らしい料理にアッ
プグレードしないとは誰にも言えない。文化の融合は終わりがないのだ。


VOCの時代が終わった後、東インドはオランダ植民地時代に突入した。その時のオラン
ダ本国はバタヴィア共和国という名称だった。しかしほどなく、1810年にフランスが
オランダを併合したため、東インドはフランスの植民地になってしまった。するとフラン
スと戦争中のイギリスがすぐさま東インドを奪い取って1811年から1816年までイ
ギリス領にし、ナポレオン戦争が終わって主権を取り戻したオランダにイギリスは東イン
ドをプレゼントした。

バタヴィアはダンデルス総督のおかげで南部へ拡張され、VOC時代よりはるかに大型の
都市になって、以前よりダイナミックな動きが開始された。VOC時代のバタヴィア城市
とその周辺のエリアから、それを取り巻いているスンダ世界にバタヴィアが広がったので
ある。

その結果、ブタウィ人が地理的に明白な定義を与えられるようになった。更に、ブタウィ
という区分で括られるブタウィ人が文化的な差異によって二種類に区分された。バタヴィ
ア中心地区にいるBetawi Tengahとバタヴィアの辺縁地域に住むBetawi Pinggirの二つで
ある。ブタウィトゥガはブタウィコタとも呼ばれ、ブタウィピンギルはブタウィオラとも
呼ばれた。oraはジャワ語の否定詞だ。つまりブタウィ語の否定詞enggakやkagakよりもジ
ャワ語のオラの方を頻繁に使うブタウィ+ジャワ折衷文化のひとびとがブタウィオラと呼
ばれたのである。

現実にブタウィオラは小さい規模でブタウィの街中にもコミュニティが存在したものの、
マジョリティは現在のブカシやタングランやデポッを領域にしたため、単純に辺縁部ブタ
ウィ人という認識にされてしまった。

ブタウィピンギルを特徴付ける料理はgabus pucung, gabus pecak, sayur besan, semur 
daging kerbau, sayur asem beningなどであり、ブタウィトゥガの特徴的な料理はsayur 
asem kuning, nasi ulam, nasi kebuli, sop kambing dengan susu, sop betawi dengan 
susu, bubur lokio, semur daging sapiなどになっている。また両者が共通に持ってい
る料理としてはnasi uduk, soto mi, semur jengkol, tape uli, dodolなどがある。
[ 続く ]