「ジャワ島の料理(67)」(2022年02月14日)

ところが、1970年代から首都モダン化の波がジャカルタを覆いはじめると、ブタウィ
人は土地を明け渡してジャカルタ郊外部へ引っ越して行った。ブタウィトゥガも地理的に
はブタウィピンギルに倣う破目に陥ったのである。その時期に、都内のあちこちにあった
ブタウィ人のカンプンから百万人のブタウィ人がボゴール・タングラン・ブカシに新たに
開かれた住宅地区へ移り住んだ。

1970年代に建設されたラスナサイッ通りが貫通しているクニガン地区は、元々ブタウ
ィ人数百人が牧畜を営んでいる原野だった。今はラスナサイッ通り北端に橋がかけられて
メンテン地区南部とつながっているが、この通りが作られるまで橋はなく、ジャカルタ中
心部からクニガン地区へ行くのはたいそう大回りをしなければならなかったそうだ。

かれらの一部は南側のMampang地区やもっと遠くのPondok Rangonへ移って行った。いまだ
にクニガン地区に残ってアスファルトシングルの中で乳牛飼育を行っている牧畜家庭は5
軒あるだけだ。


2000年国民センサスによれば、都内のブタウィ人住民人口は2,301,587人、タングラ
ン・デポッ・ブカシ合計ブタウィ人人口は2,339,083人と報告されている。2000年の
ジャカルタ住民人口は8,361,079人だったから、ブタウィ人の比率は27.5%だ。54
%という1930年の比率と比較してみればよい。昨今のジャカルタからブタウィ文化が
色あせてしまったことがそこに明白に示されているだろう。ジャカルタがブタウィ人の土
地でなくなったのは、1961年ごろから既に始まっていたことだ。そのころから、ジャ
カルタ住民の中のスンダ人・ジャワ人の人口比率はブタウィ人を凌駕するようになってい
たのである。

2000年センサスでは、都内でブタウィ人の人口比率の高い中央ジャカルタや西ジャカ
ルタで30%程度、1976年にジャカルタのブタウィ文化保存地区に指定された南ジャ
カルタのチョンデッはなんとブタウィ人が1.5%しか残っていない。一方首都圏辺縁部
のブカシはブタウィ人が50%、デポッは34%もいる。


ジャカルタモダン化のために道路やビルの建設が盛んになり、ジャワ島内やスマトラなど
から建設労働者がやってきた。ところがブタウィ人が大量に都内から去って行ったために
ブタウィ人が営む食べ物ワルンも激減した。ブタウィ料理のメニューが都内での影を薄く
したのである。それは労働者の腹を満たしてやるためのビジネスチャンスの扉が非ブタウ
ィ人に広く開かれたことを意味している。

建設労働者をターゲットにしてナシラムスのワルンを開く者たちも、中部ジャワのトゥガ
ルから上京して来た。それがジャカルタにおけるワルテッwarteg=warung Tegal業界の始
まりだった。建設プロジェクトが峠を越えた1990年代に、ワルテッ業界の第二世代は
都民の弱小経済階層にターゲットを変えた。パルメラ通り、パサルスネン、パサルタナア
バン、クブンシリ通りなどにワルテッが続々と店開きした。

ジャカルタのバタッ人コミュニティをターゲットにして、やはり首都開発期にlapo tuak
がオープンした。アルコール飲料のトゥアッを飲みながら食事し、あるいは親交を深める
ための社交の場がラポトゥアッである。

東ジャカルタ市チリリタンのストヨ中将通りにあるカンプンマヤサリがトバ、カロ、パッ
パッ、マンダイリン、シマルグン、アンコラなどバタッ諸種族が住むカンプンになってい
る。ストヨ中将通りにラポトゥアッの店が立ち並んだのも当然のことだろう。その地区は
一日中、メランコリックなバタッ歌謡音楽が流れている。

他にも多彩なジャワ料理や全国各地の料理が流れ込んで来て、高級レストランから食事ワ
ルンまで食の陳列棚になったジャカルタで、かつてはどこでも食べることができたブタウ
ィ料理の中に、都内で影を薄くしたブタウィ人と共に影の薄くなった、いや名前まで忘れ
去られそうになっている料理もある。それらはジャカルタからどころか、地上から永遠に
消え去る運命にあるのだろうか?[ 続く ]