「人間の死とヒューマニズム」(2022年02月14日) ライター: セマンティック探究者、サムスディン・ブルリアン ソース: 2010年5月7日付けコンパス紙 "Bahasa dan Kemtian" だれかが死亡した話を耳にしたムスリムはこう述べる。Inna lillahi wa inna ilaihi rajiun. (クルアン第2章156 ー 本当にわれわれはアッラーのものであり、その下 にわれわれは戻るのだ。) その時が訪れるとムスリムはアッラーにすべてを委ね、たとえそれが苦いものであっても、 神を讃えながら自分の身に降りかかるすべてを受け入れ、平常心でそれに対面するのであ る。 キリスト教徒の中のカトリック教徒は一般にRIP(Requiescant In Pace)を墓碑に記す。 これは埋葬のための祈祷の最後の部分である。Anima eius et animae omnium fidelium defunctorum per Dei misericordiam requiescant in pace.インドネシア語訳はこうなる。 Semoga jiwanya dan jiwa-jiwa orang beriman yang sudah meninggal beristirahat dalam damai karena belas kasih Tuhan. プロテスタント教徒は普通、ヨハネ伝第14章2のイエスの言葉である「父の家に帰る」 という句を引用する。Di rumah Bapa-Ku banyak tempat tinggal. Aku pergi ke situ untuk menyediakan tempat bagimu. 仏教徒にとって死は現生の延長であり、新たな出発点だ。karmaあるいはkamma次第で苦も 輪廻もない完璧な平和であるnirwanaに向かうか、あるいはこの世に再生するかが宇宙の 因果原則に従って定められるのであり、同時にすべての人間に対して生が有限であること を教えるシンボルにもなっている。 バリのヒンドゥ教では、死去した人間の霊のための聖浄化儀式であるNgabenあるいはPitra Yadnyaはmeralina(火葬)を通して遺体を五大元素Pancamahabhutaに還元するプロセスを 促進させるのである。五大元素はakasaエーテル、bayu空気、teja火、apah水、pertiwi土 から成っている。 百を超える種族とバリエーションに満ちた文化を持つヌサンタラで、言葉や慣習が異なっ ているのは当たり前のことだ。調和・共通感情・連帯感・宥和を尊重する努力はそんな多 様性の中ではじめて意味を持つ。しかし最後に得られるものは「高い者も低い者も死が平 等をもたらす」ではなくて、「死がわれわれを分かつまで」なのである。 宗教を持つ人間の断絶を映し出すものとして、インドネシアの総合墓地ほど完璧な鏡は他 にない。宗教にもとづいて区分された各エリアは、宗教信徒の部分的な一体化と人類のグ ローバルな断絶を証明している。ユニバーサルな人間性の中でよりも、かれらはそれぞれ が真理と認めている自己集団の中で生き、そして死ぬことをより快適に感じているのであ る。インドネシアの人間はヒューマニズムよりも信仰を高く奉持しているのだ。この真理 を覆い隠すことのできる合理化や釈明は存在しない。 宗教間対話は飽くことなく続けられている。つい最近もスペインのマドリッドで開催され る宗教間対話の催しにデレゲーションが送り出されたばかりだ。しかし結局はそれぞれが 別々の最終港に向かって航海するばかりなのだ。少なくとも、その最期の航海でそれぞれ が各宗教ごとの区分埋葬エリアや別々の火葬場に向かうのである。 きっと大多数のインドネシア人が信じているものは、多種多様な天国とひとつだけの地獄 なのだろう。