「単数形と複数形」(2022年02月18日)

ライター: デポッ在住の文司、アヤトロハエディ
ソース: 2004年2月21日付けコンパス紙 "Mufrad dan Jamak"

Semoga arwah almarhum diterima di sisi Tuhan.だれかが亡くなったとき、新聞の死亡
広告によく書かれる文句がそれだ。nyawa, atma, sukmaがarwahの同義語であるとはいえ、
Semoga nyawa/atma/sukma almarhum diterima di sisi Tuhan.と同義語のひとつを使って
書かれた死亡広告は見たことがない。同じように生き物の生死を決めるファクターである
にもかかわらず、arwahは人間にだけ使われ、しかも特に死に関連付けて使われるようだ。
nyawaは人間にも動物にも使われるが、生きるためにはmenyambung nyawaが求められ、死
んだときにはarwahが離脱するのである。

アルワの語はアラブ語に由来している。ただしアルワはjamak複数形だ。mufradつまり単
数形はruhである。だから一個の人間がアルワを持つことはありえず、ひとりひとりがル
ッを持つのである。インドネシア語では、そしていくつかの地方語でもそれらの語彙は同
義語とされているのだが、死亡広告の文句をルッに置き換えると、まったくしっくりこな
い。

同じことは他のアラブ語でも起こっている。光を意味するnurもそうだ。この単数形名詞
はインドネシアで、アラブ語で複数形のanwarと同義語になっているのである。インドネ
シア人にとってNur AnwarやAnwar Nurという人名は少しもおかしくない。Nuruddinさんの
隣人にAnwaruddinさんがいても、だれも何とも思わない。

しかしまた、単数形と複数形のどちらか一方だけがインドネシア語になったものもある。
ヨーロッパ語から摂取されたdataは元々が複数形だ。しかしインドネシア語で複数形が必
要な時にはdata-dataという形で使われ、単数形のdatumは古代研究者のようなほんのわず
かな環境でのみ使われている。発掘調査の前に、かれらはdatum pointを決める。それは
たいてい、掘り起こされる地面の南西に位置する。alumniもそうだ。alumniはalumnusの
複数形である。しかしIa alumnus Universitas X.と言うひとはおらず、みんなalumniを
使っている。複数を示すparaを付ける場合ですらpara alumniと言い、para alumnusある
いは単にalumniとしない。

反対に、博士号取得候補者はpromovendusと呼ばれ、複数の場合はpara promovendusが使
われてpromovendiは使われない。situsは単数形だけが摂取された。複数形sitiは学術界
の一部だけが使っている。他の人々が使わないのは、Siti Farida, Siti Hasanah, Siti 
Marfuahのように人名に使われるsitiが先に定着してしまったからはなはだ使いにくいた
めではあるまいか。Siti SundariやSiti Laksmiなどのサンスクリット語系の名前の場合
はアラブ語由来のシティでなく、Ksitiに由来していると見るべきだろう。Ksiti Sundari
やKsiti Laksmiだ。

われわれが単数形だけや複数形だけを取り入れようが、はたまた両方を取り入れて同義語
にしようが、奇妙な現象は継続する。アラブ語unsurは単数形で、anasirはその複数形で
あるというのに、unsur⇔banyak unsurやanasir⇔banyak anasirという使い方が行われて
いる。

そんな中で、単数形locusと複数形lociはあまり使われず、一部の学術界だけが使ってい
る。場所を意味する単語として摂取されたものはlokalで、発展してlokalisasiという語
形が作られた。この言葉は売春公認地区という特別の意味を持たされている。

インドネシアにある諸語は特殊な複数形を使う。まず畳語形式である。元の語をそのまま
繰り返すdwilingga、第一音節を繰り返すdwipurwa、最終音節を繰り返すdwiwasana、音を
入れ替えて繰り返すdwireka、母音を取り換えながら三度繰り返すtrirekaなどだ。

それらの形式は接辞を付けることもできる。意味は同一であったり、多少の変化が起こっ
たりする。たとえばrumput⇔rumput-rumput⇔rumput-rumputan⇔rerumput⇔rerumputan。
意味はすべてbanyak atau bermacam-macam rumputだ。一方gunungの場合は、gunung⇔ 
gunung-gunung(複数)⇔gegunung(詩歌用語でbanyak gunung、日常語でseperti gunung)
⇔gunung-gunungan(日常語でseperti gunung)⇔gegunungan(ワヤン用語でseperti 
gunung)のようになる。

ドゥイレカの例はbolak-balik, sayur-mayur, bintang-gemintang、トゥリレカの例なら
blag-blig-blugやdar-der-dorなどだ。畳語形式でない場合はbanyakやparaが前置される。

最後に一言書き添えておきたい。前世紀にアルワが姿を現したのである。それはArwah 
Setiawan。文化人でユーモリストであり、インドネシアユーモア院の設立を提案した人物
だった。