「現代イ_アにおけるアラブ語」(2022年02月21日)

ライター: 駐インドネシアオランダ大使、ニコラオス・ファン・ダーム
ソース: 2007年10月15日付けコンパス紙 "Bahasa Arab di Indonesia 
Kontemporer"

インドネシア語は易しい言語だという言葉がステレオタイプにされている。しかし本当の
ところは、インドネシア語をマスターしたことのないひとびとが主にその言葉を言ってい
ることを、わたしはインドネシアではじめて知った。そうではあっても、アラブ語をマス
ターすることの困難さがアラブ語の複雑さのゆえであることをわれわれは認めなければな
るまい。

< アラブ=インドネシア語 >
ジャカルタに来る前、堪能なわたしのアラブ語がインドネシアでのわたしの活動をかなり
楽にするだろうと思っていた。インドネシア語の中にオランダ語源の外来語が5千4百、
アラブ語源の外来語は3千あるのだから、わたしにとって語彙の問題が大幅に軽減される
と思ったのも当然だった。

そのバックグラウンドのおかげでわたしのインドネシア語学習は他人よりも楽になるだろ
うというのが、まだ時期尚早とはいえ、楽観的な結論だったのである。反対に、自由に操
ることのできるアラブ語でわたしはインドネシアの一般大衆とのコミュニケーションを有
利に行えるだろうとも期待していた。それはさまざまな機会に何人ものインドネシア人が
わたしにアドバイスしたことでもあった。

ところが実態はちょっと違った。オランダ語もアラブ語も知らない他の外国人に比べて、
わたしは多くのメリットを持っている。ところが実用面において、インドネシア語はオリ
ジナル語彙が豊かであることをわたしは発見した。当のインドネシア人を含めて大勢のひ
とびとがそう思い、またそう言っているようなものではなかったのである。それがゆえに、
わたしはインドネシア語辞典を頻繁に開かざるを得ないことになってしまった。

実際のところ、わたしはアラブ語を使う機会が期待していたほどたくさん得られていない。
必要ならアラブ語での会話ができるという人間がインドネシア人の中にそれほど多くない
のである。正しくアラブ語を使える能力のある人間はインドネシアで見上げられ尊重され
るにも関わらずだ。

インドネシア語の中でアラブ語の語彙は、とりわけインドネシアの日常生活におけるアラ
ブ語由来の言葉の元来の意味と用法に関して、オーバーな使い方がなされている印象を禁
じ得ない。インドネシア語辞典の中にアラブ語由来の語彙が3千超あるという事実は、そ
れらの語彙が日常生活の中でふんだんに使われていることを意味するものでないし、それ
どころか高学歴者であってさえ、インドネシア人自身が意味を知らない語彙も少なくない
のだ。あるいはまた、インドネシア人が使っている現代インドネシア語の語彙がアラブ語
由来であるということを知らない場合すらある。

< およそ10パーセント >
1978年に出された有名な「インドネシア語中のアラブ借用語」を出版した後、ラッセ
ル・ジョーンズはインドネシアの大学教官三人にそのリストのチェックを依頼した。三人
がそれぞれ行ったチェックの結果、そのリストの10%程度しかインドネシア語として認
識されなかったことが判明した。

インドネシアでのわたしの勤務の最初の二年間に出会った、アラブ語で完璧な会話ができ
るインドネシア人の数は少なかった。最初わたしはその事実に首を傾げた。そしてわたし
は理解した。インドネシア人のほとんどが学ぶアラブ語はアルクルアンを読んだり暗記し
たりするためのものであり、その先はタフシル・フィキ・ハディスなど重要な文書に書か
れたアラブ語を読んで理解するためであるということを。

アルクルアンの内容を生き生きと把握したからといって、文章の正確な理解を持つことと
は別物なのである。そしてまた、アルクルアンを完ぺきに理解したとしても、現代生活の
中でアラブ語による会話を自由自在に行う能力を持ったことにはならない。

アラブ語を完ぺきにマスターしているインドネシア人はインドネシアの大学やイスラム機
関あるいはプサントレンでアラブ語を学んだ人たちか、あるいはアラブ諸国に留学や長期
滞在して、アラブ語を生活言語として修得した人たちだ。プサントレンの中には、東ジャ
ワ州ゴントルのようにアラブ語の日常使用を義務付けているところがある。

その言語が国民生活のための言語になっている国で外国人が長期間生活すれば、その言語
で社会生活を営まなければならなくなる。日々その言語に接し、絶えずその言語で他人と
コミュニケーションしなければならない場に置かれた人間は、その生活環境の中で自分の
生活を最大限に成り立たせようとして、その社会の習慣・しきたり・考え方・価値観など
に沿った行動を展開するようになる。そこでの生活言語が堪能になるのは当たり前だ。