「アラブ語彙を使いたがる傾向」(2022年02月22日) ライター: アルアズハル大学(エジプト)卒業生、ノフリアントニ ソース: 2005年1月8日付けコンパス紙 "Bahasa, Tradisi, dan Ideologi" 毎回ルバランが終わると、インドネシアのムスリムは伝統的にHalalbihalalを催す。政府 の役所、民間組織、学校などがこの年中行事を行うのである。ハラルビハラルという言葉 がたいそう頻繁に使われる言葉になった結果、多分アラブ語から取られたと思われるその 言葉の意味をわれわれは忘れてしまった。それが本当にアラブ語から取られたものだと仮 定しても、アラブ語の原生地であるアラブの地にハラルビハラルという言葉を使う者はい ない。われわれの先祖がこの言葉を創造した可能性はきわめて高い。それをわれわれは今 日まで、何の疑問も抱かずに使っているのである。 ハラルビハラルという言葉はアラブ語ハラルをふたつ、接続詞ビで繋いだものだ。ハラル はイスラム法で「許されている」または「禁じられていない」を意味する言葉だ。逐語的 に解釈するなら、「ハラルなるものをもって、なにかをハラルにする」という意味になる。 KBBIはその語義として、「ラマダン月の断食の務めを果たした後、お互いを赦し合う こと」と記している。要するに、イスラム教徒の間で懇親のきずなを深めるために親睦を はかる、ということだろう。ある民放テレビに出演したウスタツは、既にインドネシア化 したその親睦silaturahmiの語を濃いアラブ口調で、silaturahmiでなくshilaturrahimが 正しいのだと主張していた。 インドネシア語として既に受け入れられているその語をそのウスタツがなぜ修正したいの か、われわれにはまるで理解できない。インドネシアの言語学者が何千もの外国語彙をイ ンドネシア語の中で的確に、また言いやすい形で使えるように苦労してインドネシア語化 したというのに。 過日催された第31回ナフダトゥルウラマ全国大会で、ナフダトゥルウラマの信奉者たち であるナフドゥリインnahdliyyin層が使うアラブ語彙にわれわれは苦労した。組織のトッ プ層と執行部の長の地位を意味してrais amの語が使われているのだが、アラブ語を理解 する人間にとってその語は総会長を意味しているのだ。 ナフダトゥルウラマが組織内でなぜそのような言葉の使い方をしているのか?どちらに使 ってもたいした違いにならないということなのだろうか。 一部のサントリにしか理解できない他の語彙の用法も、ナフダトゥルウラマの中でいろい ろと使われている。大会の中での提案発起委員会をtaushiyahコミッションと称し、教義 に関わる問題はmasa'il diniyyah maudlu'iyyah、実践に関わる問題についてはmasa'il diniyyah waqi'iyyahと呼んだ。要するにわれわれは、そのアラブ語を一旦インドネシア 語に置き換えて意味を探し、それをまたその言葉に戻して使うことを強いられたのだ。 ナフダトゥルウラマのメンバーたちが伝統を尊重してそれらの語彙をインドネシア語に替 えないという点については、理解できる。組織の中で使われているアラブ語は既にメンバ ーの生活における血肉になっているのだ。その独特な語彙の用法を別のものに置き換える のは、大きな決意が必要だろう。たとえばbahtsul masa'ilという言葉をanalisis wacana keagamaanに替えたり、ましてやmancari gara-garaなどと言えば、サントリがふざけてい ると思われるだけだ。いくつかの常用語を決してインドネシア語にしないのは、ナフダト ゥルウラマという組織が歩んで来た歴史と伝統の重みを無くしたくない意志の反映でもあ り、またインドネシア語への翻訳が語義と語感を完ぺきに伝えられないという技術的制約 のせいでもあるだろう。 とはいえ、アラブ語を使用することで時にはイデオロギー的姿勢が明示されることも起こ る。たとえば、インドネシアの新しいイスラム運動の場でひとびとが仲間の男性をakhi、 女性をukhti、運動のリーダーをmursyid、宗教をdin、文明をtsakofahなどと呼んでいる のは伝統の維持に関係がない。環境内に独自の語彙を持ち込むことは運動組織の個性を作 り、他の環境との差別化をはかる結果を生む。メンバーにとってはそれらの語彙が特殊な 心理効果をもたらすために、その集団の団結と結束を高める作用がそこに招き寄せられる のである。ナフダトゥルウラマの慣用的アラブ語彙はそのようなイデオロギー的ウエイト をあまり持っていない。 最後に、たくさんのインドネシア人が外国の語彙をインドネシア語化しようとしない姿勢 を持っている姿をわれわれは頻繁に目にしている。実に悲しむべき現象だ。なぜなら、わ れわれの言語はますます貧困化し、われわれが持つべき自分の言語を発展させるための創 造力と想像力をますます干からびさせる結末をもたらすからだ。 「言語は民族の本性を示す」というスローガンは問い直されなければならない。今や言語 は民族の本性を示さず、民族性でないものを示すようになっているのだから。かつてわれ われの先達はインドネシア語の語彙を豊かにすることに力を注いだというのに、今やイン ドネシア語は貧困化の過程に入ってしまい、同時にインドネシア人にとってますます疎遠 なものになりつつある。長期的見地から、この現象は実に嘆かわしいものなのである。