「ジャワ島の料理(73)」(2022年02月22日)

このグロドッパンチョラン地区は1940年代から1970年代ごろまで、ジャカルタの
中上流層美食家にとっての味覚センターになっていた。言うまでもなく、根幹は中華料理
だ。nasi ayam hainan, sup bulus, kwetiaw sapi, babi panggangそしてブタウィ料理の
sop kambing, soto betawi等々。昔のジャカルタの美食アイコンはそんなものだったので
ある。

その時代にジャカルタの食堂街遊興街としてまとまった規模の地区はグロドッが筆頭だっ
た。エリート地区であったと言って過言であるまい。Kam Leng, Beng Hiong, Zhong Hua, 
Tay Loo Tin, Huy Yun, Shi Hai Juan, Siaw A Tjiapなどのレストランにメンテンやクバ
ヨランバルから美食家が集まって来たのだ。

1949年のハーグ円卓会議で重要な役割を担ったオランダ大使ファン・ロイェンは頻繁
にグロドッ地区を訪れて食事をしていたそうだ。台湾のアクションスターJimmy Wang Yu
王羽や俳優Cheng Yunもクエティヤウサピが評判のレストラン「シャウアチァップ」によ
く顔を見せていた。パンチョラン通り北側にあったタイローティンはオランダ人がよく訪
れるレストランだった。

グロドッのパンチョラン地区は、大通りから中に踏み込むとまるで迷路のようになってい
る。その狭い路地があちこちに枝分かれしているそこここに、食べ物屋が店を開いている。
totokが自分の身に着いた中華文化を持ち込んで正統中華料理を作れば、babahが文化融合
で生み出されたブタウィ中華文化の色濃い料理を勧める。

トトッはオリジナルが本来の意味であり、外国から移住して来た外国人を指してBelanda 
totok, Arab totok, Cina totokなどのように使われる。ババッとは、KBBIによれば
babaと同義で、ババは華人男性への尊称と説明されている。つまりプリブミは華人に見え
る男性をババと呼んでいたから、新客でもプラナカンでも同じであるはずなのに、どうし
て華人はババをプラナカンのシンボルにしてしまったのだろうか?

ババの語源は中国語「??」だという説がある。またヨーロッパ語papaをアラブ人がbaba
と発音したために、アラブ語として入って来たという説もある。15世紀ごろマラッカに
移住して来た華人の子孫はプラナカンであり、かれらが自らを男性がBaba女性はNyonyaあ
るいはNonyaと称した故事がある。たぶんその辺りでプラナカンのシンボルにつながって
いるのかもしれない。

ちなみにブタウィ人は自分の父親をbabahと呼び、また代名詞としても使っている。オヤ
ジを意味する俗語babeとの関連性を指摘する説明も見られるが、バベとババッは敬賎ある
いは親疎の語感が異なっていて、単に言い換えをしている雰囲気は感じられない。


パンチョラン通りに面したToko Tian Liongの裏を通るGang Kecapにあるアシナンのワル
ン、Gang Gloriaにあるソトミーやクトゥパッサユル、あるいはパンチョラン通り北側の
ルジャッシャンハイなどは疑いもないプラナカン料理だ。ただしそのルジャッシャンハイ
はオリジナル料理なのである。

Rujak Shanghai Stand 68は1950年にオープンした。二代目店主アフンさんの談によ
れば、かの女の母親が最初シャンハイ映画館でルジャッを売っていた。そのルジャッが好
評で、ひとびとはルジャッシャンハイと呼んでいたので、それがレシピ名になってしまっ
た。シャンハイ映画館自体は1960年ごろに姿を消している。

このルジャッシャンハイは干しコウイカと干しクラゲ、熱湯を通したカンクンと大根を皿
に盛り、赤っぽいサゴソースをかけてから粗く砕いたピーナツを上に振りかけたもの。ソ
ースはニンニク・トマトケチャップ・ピーナツ・トウガラシサンバルが混ざっており、複
雑な味覚が舌を包む。


干しコウイカを使うルジャッが別にある。ブタウィ料理と言われているrujak juhiだ。ジ
ュヒは福建語でイカを意味する言葉であり、この料理の誕生にも華人がからんだ気配が濃
厚だ。

ルジャッジュヒはジャガイモ・干しイカ・生めん・サラダ菜・キュウリ・キャベツ・クル
プッミー・ンピンの実にピーナツソースをかけたものだ。ピーナツソースは、ピーナツ・
トウガラシ・ニンニク・干しエビ・塩・ヤシ砂糖・酢で作る。[ 続く ]