「hの効用」(2022年02月23日)

ライター: 文司、バンドン在住、スジョコ
ソース: 2003年11月22日付けコンパス紙 "Ramadan atau Ramadhan"

パッブルムは問題を抱えている。
「ラマダンをどう綴ればいいのだろうか?dhを使うのか、それともdだけでよいのか?」
「たいへんなことじゃないでしょう。新聞はみんなRamadhanと書いている。」
「しかしわれわれは昔、hのないRamadanと書いていたんだ。どうなのかね。」

パッブルムは間違っていない。昔の時代を体験したひとたちはみんなそれを知っている。
だがいまや、われわれはいたるところでRamadhanの綴りを目にする。どうすりゃいいのだ
ろうか?すべての辞書がRamadanと書いているというのに、ひとびとがhを挿入して使って
いるこの事態を統制するのは無理だ。ひとはそれぞれ、自分のしたいようにする。かれら
にとって、この「h」君は投げ捨てるにしのびないものなのだ。お隣さんのマレーシアの
ことなんか気にする必要はない。マレーシアの新聞がみんなRamadanと書いていても、気
にしない、気にしない。


hの不思議さがそれだ。アラブ世界にはRamadanがあり、Ramadhanもある。パキスタン人に
至ってはRamazanと綴っている。どんな発音なのだろうか?そりゃパキスタン人に聞いて
くれ。しかしわれわれ自身ですら、昔はRamadlanと書いていたことがある。おまけにdが
姿を消して、ザインの辞書には「ひとびとはたいていbulan Ramelanと称した」と説明さ
れている。こりゃ何千人もが持っている人名だ。

スンダの地でこの聖なる月はRamedanと呼ばれる。弱母音のeはしばしば消失してRamdanと
聞こえる。こりゃ赤ちゃんの名前にもってこいじゃないか。バンドンの電話帳を見てごら
ん。RamdanあるいはRamdhanの名前が何十人も並んでいる。いやそればかりか、Ramdanah
やRamdani、あるいはRamdiniという名前まで見つかる。


hの文字はわれわれの言葉の中で特別な位置を占めている。hがあろうがなかろうが、音声
的には何も違わない。RamadanであろうがRamadhanであろうが、発音はまるで同じなのだ。
しかしその姿がわれわれの心を震わせる。hが付けられた途端に、その言葉はより重要で、
より価値高く、より偉大で、より高承、より優雅、よりオーセンティック、より尊く、よ
り巨大な語感を匂い立たせる。われわれの言葉の中でこの「h」君は実に特別な感覚的価
値を帯びているものなのである。

われわれは通常、darmaあるいはdermaと書く。darmabaktiやdarmawisataなどの熟語が存
在する。ところがDharma Wanitaと綴られるのはドウシテカ?また別に、lahir bathinと
も書けば、baktiがしばしばbhaktiになり、Graha Purna Yudhaがあり、BudaがBuddhaにも
なるのである。hだけでは足りないのか、dがddに増えている。

われわれにはRita Widagdoという名の彫刻家がいる。ところが世人はしばしばWidagdhaと
綴っているのだ。この場合、-gdoと-gdhaの発音、つまりdとdhの音は全く同じにならなけ
ればならない。別の音にしてはならないのである。そんな細かいことを・・?いやちょっ
とカッコつけているだけなんだが。


bataraとbhatharaがあり、busanaとbhusanaがある。どうやらこのh現象は名称によく出現
するようだ。この傾向の源泉はサンスクリット語や古代ジャワ語のアルファベット表記が
影響をもたらしたもののようだ。古代言語は神聖で畏敬されるべきものなのである。ラテ
ン語がそうだ。ひとはそれを超常的と言う。面白いことに、西洋にもh現象があるのだ。

一部の新聞はBagdadと書き、別の新聞はBaghdadと書く。AfganistanもあればAfghanistan
もある。ただしこれは個人的な好みによる選択なのではない。西洋各国がそれぞれ決めた
自国語のルールに従って行われていることだ。何が根拠になっているのかは分からないが。
今のわが国の新聞はh付けを好んでいる。不思議だ。


ラマダンという語の由来はたいへん面白い。アラブ人アブドウルハミッ・ムフタルの語る
語源によれば、ラマダンはアラブ語ramidaまたはarramadに由来している。極度に激しい
乾燥と熱がその意味だそうだ。普通は地面に関して使われる。それを断食に結び付けて考
えたら何が思い浮かぶだろうか。激しい乾きは喉に起こる。長時間何も飲み食いしないの
だから。激しい熱はあらゆる罪を焼き尽くすものになる。まあこれは、当座の素朴な解釈
でしかないが。

おかしなことに、われわれはラマダン月をプアサ月とも呼んでいる。プアサという言葉は
アラブ語でなくてカウィKawi語である。アラブ語はsiyamだ。シヤムはスンダ語にもジャ
ワ語にも入ったし、多分ヌサンタラの他の地方語にも入っているだろう。スンダ人はsiyam
と言い、ジャワ人はsiyemと言う。またその同義語としてアラブ語saumもスンダとジャワ
の双方に入っている。

パッブルムはまだ問題解決に至らない。
「最近のラジオでは大勢がRamadonと発音している。書くときにはRamadhonと書くのだろ
うか?」
「ああ、もうたくさんだ。頭が痛くなる。」