「ラマダンの綴りは正誤無用」(2022年02月24日)

ライター: スエーデン語インドネシア語辞典編纂者、アンドレ・モレン
ソース: 2014年7月5日付けコンパス紙 "Ramadan dan Idulfitri"

イスラム社会が待ち望んでいる、偉大なる年次の客が、いまわれわれの心の扉を叩いてい
る。朝から夜まで、篤信の、あるいは篤信そうなひとびとは美食・新鮮な飲み物を離れ、
褒められない言葉を口にしたり下品な行為、あるいは正しくないインドネシア語を言うこ
とを避ける。モラルに満ちた言葉やメッセージの書かれたスパム垂れ幕が公共スペースを
汚し、多分この限定期間中に汚職行為も少しは低下するのだろう。普段はワジブ礼拝すら
あまり行わないにもかかわらず、モスクはスンナ礼拝を行いたいひとびとで満ち溢れる。
そう、プアサ月が今年もやってきたのだ。

ヒジュラ暦第9番目の月をわれわれはどう呼べばよいのだろうか?Ramadhan, Ramadhon, 
Ramadlan, Ramazan, Romadlon, Romadhan・・?スエーデンのことわざにこんなものがあ
る。好かれる子供はたくさん呼び名を持っている。だがわれわれはよその世界で賢明そう
なことを語っている文句の陰に隠れていてはならないのだ。多分われわれはわれわれ好み
の民間団体が月初と月末を決めているやり方に従うように、断食月の名称をかれらの言い
方に合わせればいいのだろう。ただ、種々の民間団体は言葉の用法にあまり一貫的でない
のである。新聞もテレビ局も似たようなものだ。キヤイ、ダイ、ハティブらも一貫性は期
待できない。かれらはみんな断食月の本質が名称の書き方によって変わるわけでないこと
を知っているから、一貫性などを云々してもしようがないことは確かなのだ。たとえ綴り
を書き間違えたとしても、本源に戻りたいひとびとへの差し障りになるわけでないし、ブ
ハリもムスリムも綴りの問題をあれこれと一大議論にすることはないとみんな悟っている
のだろう。

一方、われわれにはこのプアサ月の名称について思索し、提案をする権利がある。さもな
ければ、そのうちにRamadzlonやRamadlzoonなどというものが飛び出して来かねないでは
ないか。例によって、KBBIを覗き、そこに見られるパターンに従うのは、悪いことで
はない。実に面白いことに、KBBIで見つかるのはインドネシアであまり目にすること
のないRamadanという綴りだ。これを分析すると、すべての母音はアルファベットのaに置
き換えられ、アラブ語アブジャッの15番目の文字dadがアルファベットのdに翻字されて
いるのである。インドネシア語のdに翻字されるのはアラブ語8番目の文字dalが通常なの
に、dadとdalが区別されなかったことが示されている。たとえば、アラブ語farduという
言葉を見てみれば良い。dのアラブ語はRamadanのdの文字と違っているのだ。ところがイ
ンドネシア語の綴りは同じになった。そうであるなら、ナフダトゥルウラマの最初の語は
KBBI式に書くならNahdatulとなってNahdlatulにならないことになる。

IdulfitriのdもRamadanのdと違うものだが、どちらもdが使われている。ともあれ、グリ
ーティングカードやSMSあるいはソスメドのメッセージにSelamat Idul Fitriと書いて
はいけない。どうしてか?Idulとはインドネシア語の一単語ではないのである。Idulは他
の語に接続する形であるため、それだけで独立した語彙になることができない。つまり
Idulという単語は存在できず、fitriやadhaと一緒に使われなければならない。一方、Id
はひとつの語彙になるので、salat idやid mubarakという表現をしても面目を保つことに
なる。

もしあなたがスパム垂れ幕をいま制作中であるのなら、次のような綴りを使って格調を高
めるようにお勧めする。Ramadan, salat, tarawih, Idulfitri, hadis, daif, wudu.
Mohon maafkan batin dan lahir saya.