「辞書に書かれない語義」(2022年02月25日)

ライター: 詩人、F ラハルディ
ソース: 2005年3月6日付けコンパス紙 "Ustaz, Pastor, dan Guru"

言葉の語義はさまざまな側面から見ることができる。ものごとの表象としてのレクシカル
な語義。語彙間あるいは語彙と句や節の関係にもとづくグラマティカルな語義。その他に
も文形上の語義、含蓄的語義、主情的語義、認識的語義、強意的語義、外延的語義、明示
的語義、慣用的語義、広義の語義、特殊な語義等々がある。われわれの先生は昔、それら
の語義を比喩的意味と実の意味という区分で呼んでいた。

ウスタズの意味はKBBI第三版で、guru agama atau guru besarと記されているものの、
文法的文形的語義である善と聖のシンボルという意味が辞書的語義を沈没させてしまった。
今やウスタズの地位はkiai, pendeta, pastorと同列に置かれて、学校の宗教教師ではな
くなっている。

ところがパストルとプンデタの辞書的語義はウスタズやキヤイとも違っているのだ。イス
ラム教においては女性でない限り、だれでも金曜日にモスクで行われるような集団礼拝、
つまりsalat berjamaahを進行させるimamの役割を務めることができる。一方、ヒンドゥ
教・仏教・儒教・プロテスタント・カトリックの諸宗教においては、宗教儀式を統率する
イマム役をだれでも行えるわけではない。それはプンデタやパストルが担う仕事なのだ。


ウスタズ・パストル・プンデタの辞書的語義が文法的文形的語義で歪められてはならない。
宗教が異なり、各職の基本に違いがあるからということだけではない。ウスタズの文型的
語義変化は善のシンボルという側面にとどまっており、あくまでも「宗教の師」という辞
書的語義は変化していない。確立された宗教構造の中で指導層にのし上がったのではない
のである。

ヒンドゥ教・仏教・儒教・プロテスタントの諸宗教の中で用いられているプンデタとカト
リック教のパストルの意味は主に、宗教指導者且つ恒久的イマムなのであり、明らかにウ
スタズの意味と異なっている。プンデタもパストルも、イマムになるためには定められた
教育制度の中を経なければならない。固定的な職としてのウスタズやキヤイも特別な教育
課程を経た上に一般大衆からの承認を得なければならない。しかしサラッブルジャマアで
のイマムの役割をイスラムは固定的なものにしていないのだ。そこでのイマムは、特別な
教育を経て得られた恒久的な肩書にされていないのである。

プンデタとパストルがレクシカルな意味において同じように「宗教指導者で、且つ恒久的
イマムである」とされてはいても、その両者の間には根本的な辞書的語義の違いがある。

プンデタは妻子を持って家庭を作ることができる一方、パストルは結婚できない。そのた
めにプンデタは普通の社会構成員として生きることができるが、主教管区の直属者である
pastor prajaが僧院外での暮らしを許されているような例外はあっても、パストルは教会
組織の一員としてその生涯を僧院で送る。パストルプラジャも結婚して家庭を営むことは
許されていない。

宗教儀式の恒久的統率者であるプンデタやパストルのステータスは、実のところ、集団礼
拝のイマムでなくてimam masjidと同じであると言える。ただしそこでも、パストルには
プンデタとイマムマスジッとの違いがあるにはあるのだが。教会組織の一員であるパスト
ルは組織上層部の決定に従ってどこへでも、たとえ外国であっても、転勤して行く。イマ
ムマスジッにそのような例はほとんどない。それはヴァティカンのローマ法王を頂点に戴
く巨大なカトリック教会組織の円錐構造が生み出したビヘイビアであって、ヒンドゥ教・
仏教・儒教・プロテスタントの諸宗教はそのような統一的宗教組織構造をしておらず、末
端での自主的な動きが主流を占めているからそんなことが起こりにくいのだ。非中央集権
的あり方はより民主主義的な形態でもある。


KBBIに示されているグルの語義はorang yang pekerjaannya (mata pencahariannya, 
profesinya) mengajarとなっているが、文法的文形的含蓄的語義は多彩なものになる。B
Jハビビが大臣時代に「スハルトはguru besarだ。」と語ったことがある。それが辞書的
語義で使われたのでないことは明白だ。スハルトは大学生活を送ったことがなく、まして
や大学で講義したことさえないのだから。ヌルホリシュ・マジッがguru bangsaと称され
たのは、かれがこの民族のための教師を職業にしていたということでは、まったくない。

Ustaz di kampung malingという句のマリンもレクシカル語義でなく、文法的文形的含蓄
的語義で使われているのである。