「終わることは再出発すること」(2022年03月02日)

ライター: インドネシア大学文学部教授、アントン・ムリヨノ
ソース: 2002年11月30日付けコンパス紙 "Idulfitri dan Lebaran"

もうしばらくすれば、われわれはイドゥルフィトリまたはハリラヤルバランを祝う。イス
ラムのカレンダーにはベーシックな祝祭日がふたつある。その第一はハリラヤクルバンで、
アラブ語では'id al-qurbanとも'id al-adhaとも呼ばれる。イドゥルクルバンとイドゥル
アドハだ。その日のことを'id al-kabirと呼ぶこともある。大祝日の意味だ。

もうひとつがハリラヤルバランで、アラブ語は'id al-fitrであり、また'id al-saghirと
も呼ばれる。イドゥルフィトリは小祝日なのである。名前は小祝日でも、こちらの方がル
バランハジよりも盛大に祝われる。断食の行を終えたことを祝うからだ。


インドネシアの主要三言語でそれらの祝祭がどのように呼ばれているのかを知るのは、た
いへん興味深いことがらだろう。マレーシアを含むムラユ語社会においては、前者はhari 
raya Kurban, hari raya Haji, hari raya Agung, Lebaran Besar、後者についてはhari 
raya Puasa, Lebaranと呼ばれている。

ジャワ語社会は前者をBakda Besar, Lebaran Haji, Lebaran Kaji, Riyaya、後者をBakda 
Puasa, Bakdan, Lebaranと呼んでいる。アラブ語bakdaの語義は「〜の後」だが、祝日の
意味もある。スンダ語社会で前者はLebaran Haji, Lebaran Rayagung、後者はBoboran 
Siyam, Lebaran Puasaと呼ばれている。

スンダ語boborの語義はberbuka, menghentikan puasaの意味だ。ジャワ語lebar、スンダ
語lubarはbebas, selesai, berakhirを意味している。(訳注:ジャワ語lebarは弱母音で
発音され、広いを意味するムラユ語源のlebarは強母音で発音される。それらは意味の違
う別の言葉だ。)


ルバラン、バッダプアサ、ボボランシヤムなどの言葉は、昔のひとびとが祝祭と断食の終
わりを密接に関連付けていたことを想像させる。アラブ語の名称が意味するところも、も
ちろんそれなのだ。アラブ語の名称は意味論上でどんな内容になっているのだろうか?

アラブ語イッはレクシカルな語義を祝日あるいは祝祭の日としている。他の一連のアラブ
の祝日名称がすべてイッの語を含んでいるのを見れば明らかだろう。独立記念日を示して
いるIdulistiqlal、あるいはアラブ人キリスト教徒の祝祭日のひとつであるクリスマスを
指すIdulmilad almasihi。 


fitriの普遍格であるal-fitrは断食の終了を示している。語根のfataraから「断食があけ
ること」を意味するiftarという語が派生した。断食月の間、夜明け前に食べる食事をわ
れわれはsahurと呼んでいるというのに、断食をあけることについてどうしてインドネシ
ア語のberbukaが選択されたのかは興味深いポイントだ。

fataraから派生した別の言葉にfaturがある。ファトゥルは昼間に飲食したためにその日
の断食の行が取り消されることを指している。更にfuturは朝食を指して使われる。朝食
の英語breakfastの語源がbreak the fast (during the night)であるというのも面白い。


ラマダン月の終わりまでにムスリムはzakt al-fitr、つまり与えることを義務付けられて
いるzakat fitrahを終わらせていなければならない。この場合のフィトラもルバランを指
している。

puasaの語源はサンスクリット語upavasaで、ヒンドゥ教における広い意味での自己抑制を
指す言葉だ。装身具や香水を使うといった事柄まで含む、あらゆる欲望に耐えることだ。
プアサの語はその意味が狭められ、他の宗教においてはそれぞれの教義に即して使われる
ようになった。だからイスラム教徒のプアサはキリスト教徒のプアサと内容が違っている。
アラブ語でイスラム教徒のプアサを意味するsaumあるいはsiyamも、ムラユ語・ジャワ語
・スンダ語の中に摂り入れられている。

そこでは、プアサの暗意がフィトラへの回帰に結びついている。本源であったフィトラ・
様相・性質にフィトリがつながっているのだ。アラブ文字でフィトリとフィトラはよく似
ているとはいえ、違いがある。だから異なる単語なのである。そこに同音異義現象が起こ
っている。

アラブ語にもインドネシア語にも、本源的性質・神聖さ・能力・本来的性格を意味するフ
ィトラがあり、そしてハリラヤイドゥルフィトリの義務になっている喜捨に使われている
フィトラがある。

更にフィトリは本源的性質と断食の終了の両方を指している。つまり、実際には異なるふ
たつの単語が同一の形をしているのである。似たような例は現実にいっぱいあるだろう。
たとえば川を意味するkaliが、何回という頻度を意味するkaliと同じ形をしているではな
いか。