「ジャワ島の料理(81)」(2022年03月08日)

クラットゥロルが南ジャカルタのWarung Buncit地区と深くつながっているというのが定
説だ。由来譚を説明しているものにまだ出会えないのだが、昔のクラットゥロル作り売り
人はみんなワルンブンチッ地区に住むブタウィ人であり、その地区に住んでいるブタウィ
人でクラットゥロルが上手に作れない者はいないという話があちこちの記事に見つかる。

ブタウィ史家アルウィ・シャハブ氏の話では、今ではメインストリートの名前に使われて
いるワルンブンチッという地区名称は、そういう名前のワルンがあったことに由来してい
るそうだ。

クニガン地区を貫通しているラスナサイッ通り南端のテンデアン通り陸橋下から南におよ
そ1.5キロ下った道路の西側にマドラサ「サダトウッダライン」の建物がある。昔はそ
の場所に華人の雑貨ワルン、つまりトコチナがあった。ジャカルタのあちこちにワルンを
開いた華人たちは看板を出さなかったから、ひとびとは店主の姿をその店の名称にした。

その店主は布袋腹だったので、店はワルンブンチッと呼ばれた。昔はWarung si kurus,
Warung si jangkung, Warung si gendutなどと呼ばれる店があちこちにあった。Kwitang
生まれの同氏は、クウィタンにWarung andilがあったと書いている。複数の人間が資金を
出し合って作ったワルンだからだ。

クニガン地区とラグナン地区を結ぶこの道路は1970年代ですらまだ全線舗装がなされ
ていなかった。そのころ道路の左右は森林と草地がたくさんあって、住んでいるブタウィ
人たちはブリンビンの木を植えて果実を穫っていた。ブリンビンスマランと呼ばれたその
地区特産のブリンビンは大型で甘く、人気が高かった。


テンデアン通り陸橋下から南がワルンブンチッ地区になる。昔の家畜放牧地区だったクニ
ガンから更に南に伸びていたエリアだったから、かつてどんな姿の土地だったのかは想像
できるだろう。

ラグナン地区を目指して一路南下するワルンブンチッ通りが南端の辺りまで完全舗装され
た道路になったのは1990年代初めごろだったように記憶している。プジャテン地区か
らクマン地区に向かう西プジャテン通りとの交差点一帯はそれまで小高い丘の峰の趣をな
していて、道路から外れたら5〜6メートル下の谷底に転落する恐怖を運転者に抱かせる
ものだった。わたしはそんな思いでそこを通っていた。

今は交差点東側にあるレプブリカ紙本社の名前を採ってレプブリカ交差点と呼ばれている
その地域の1975年ごろは、水田や養魚池が散在する田園地帯であり、牛を飼って草地
で遊ばせ、魚を池で飼って売り物にしていた。そのころでも、ブンチッ通り沿いのカンプ
ンが飼っている牛は、クニガン地区には負けるが1千頭を超えていたそうだ。今では3百
頭くらいに減り、畜産家庭は指折り数えるくらいしかいなくなった。

昔は牛を10頭持てば、それで一家の生計が成り立った。15頭持てば土地を買えた。今
15頭も飼えば、土地を売らなきゃやっていけない、と地元ブタウィ人は冗談めかして語
る。

80年代末ごろに小高い丘は切り崩されて平地になり、大きな交差点が誕生してレプブリ
カ紙が本社を置いた。交差点南側にはプジャテンモールができて、狭くなった空間をます
ます狭めた印象が抜けない。このモールの建設は一時期中止されて、建設用地には雨水が
たまり、そこは数年間巨大な池になっていた。

プジャテン地区にも牛を飼う家がたくさんあり、牛舎があちこちにあった。牛がいなくな
ったら、牛舎は貸家に姿を変えた。この地区内には貸家やコスコサンがたくさんある。


ワルンブンチッ地区から、クラットゥロル作り売り人が輩出した。オランダ時代のパサル
ガンビルで作り売りした者たちの子孫が今でもジャカルタのあちこちでその仕事を引き継
いでいる。昨今のジャカルタフェアで商売している者たちは別にして、それ以外の場所で
クラットゥロルを商っている者の99%はワルンブンチッに関りがあるそうだ。[ 続く ]