「アガマとレリギ」(2022年03月08日)

ライター: 短編作家、レイニー・フタバラッ
ソース: 2013年9月14日付けコンパス紙 "Lagu Keagamaan"

この前のラマダン月にジャカルタのあるテレビ局がLagu Religi Makin Bersemi(宗教歌
曲はますます盛ん)というタイトルの番組を放送した。2013年6月に政治法曹治安統
括省がPeran Strategis Media Religi dalam Mendukung Persatuan dan Kesatuan Bangsa
民族の統一と団結への支援における宗教メディアの戦略的役割)というタイトルの討論会
を、キリスト教メディア就労者を対象にして開催している。

宗教的な歌を指す言葉はインドネシアに少なくない。lagu rohani, lagu dakwah, lagu 
Islami, lagu qasidah, lagu gerejawi。それらの言葉はすべて、信仰を表明する歌であ
ると同時に宗教祭祀に必要なものという機能に根ざした表現だ。


国語センターKBBI第四版はreligiの意味を、
kepercayaan kepada Tuhan; 
kepercayaan akan adanya kekuatan adikodrati di atas manusia; 
kepercayaan (animisme, dinamisme);
agama
としている。一方、agamaについては、
ajaran, sistem yang mengatur tata keimanan (kepercayaan) dan peribadatan kepada 
Tuhan Yang Mahakuasa serta tata kaidah yg berhubungan dng pergaulan manusia dan 
manusia serta manusia dan lingkungannya
と説明している、

つまり、レリギとアガマは同義語とされているものの、語義の広さに違いがある。レリギ
はアニミズムやダイナミズムまで含んでいる一方、アガマは主に一神教を指している。

「宗教歌曲はますます盛ん」の放送を見るなら、その内容がlagu Islamiであることは容
易に分る。同じような表現はオンラインニュースサイトのさまざまな記事タイトルにも使
われていて、内容はlagu Islamiやlagu dakwahを指している。どうしてレリギという語を
使おうとするのだろうか?


理由の第一は、レリギの語が意味のより広い一般性を持っていて、排他的語感をあまり感
じさせないように見えるからだ。しかし日常言語の中ではあまり一般的に使われていない。
ベチャ引き・くず拾い・乞食たちはレリギよりもアガマの語に、はるかにより親しくなじ
んでいる。放送が公共スペースに向けて流されるために、テレビ局はレリギの語を選択し
たのである。

二つ目の理由として、マスメディアや政府機関はプログラムが全方面に受け入れられるよ
うユーフェミズムを使わなければならないということがある。マスメディアは威厳を示す
ことと合わせて、ユーフェミズムの必要性を満たすために英語の外来語を使っているとい
う研究報告もある。

三つ目は、言葉を使うことの中に発生する面倒を避けたいこと。英語を主体にした外国の
語彙をごちゃ混ぜで使っているのが今のインドネシア語だ。少なくとも、dobel, eksis, 
ekspos, e-mail, tower等々の外来語がたくさん使われている。


lagu religiの中の形容詞religiの語は語形論的に間違っている。英語名詞religionの形
容詞形はreligiousである。そのためにタイトルはlagu keagamaanまたはlagu religiusと
なるべきだ。mysteriousやambitiousがインドネシア語でmisteriusやambisiusになってい
るのと比べて見ればよい。それどころか、もっとコンテキストに即して正確な表現をする
のであれば、lagu Islamiやlagu dakwahを使えばよいではないか。その放送はラマダン月
の中で行われているのだから。

こんな警句がある。「ひとつの民族は言語によって統一される。しかしまた、言語によっ
て分裂し、愚弄し合い、盲目にされる」

宗教をテーマにする公共スペースでのユーフェミズムは、民族教育にとって常に良いもの
になるとはかぎらない。視聴者は、lagu dakwahやlagu gerejawiのような開けっぴろげで
ストレートな表現から宗教や音楽ジャンルの多様性を尊重し受け入れることを学ぶのであ
る。