「棄教の意味」(2022年03月09日)

ライター: 言語オブザーバー、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2007年5月18日付けコンパス紙 "Murtad"

murtad! 何という激烈な断罪だろう。tobat! 議論の余地を与えない要求。ひとつを死な
せて他の全員を生かす。その間に妥協は存在しない。ムルタッ(棄教)かトバッ(帰依)
か。地獄か極楽か。中道はないのだ。両者を結ぶ橋はない。それが中東に出現した諸宗教
であり、それらはヒューマニズムに分割ラインを引いた。

何世紀もの間、その分割ラインは、多少とも平和な状態で共存したり、より頻繁に反目し
たり敵対しあう種々の集団に人間を分割した。はっきりしているのは、かれらの意識が常
にウチとソト、kami:kamuのディコトミーの中に置かれていたことである。ムルタッとト
バッは正反対の関係だ。ある行為がムルタッと呼ばれたりトバッと呼ばれたりするのは、
人間が正反対の二種類の行為を行っているからでなくて、別の人間がその行為に違う評価
を与えているからである。わたしと一緒に歩いていた人間が突然背を向けたとき、わたし
はかれをムルタッと呼び、かれはkamuに位置付けられる。わたしの歩く方向と異なる方に
歩いていた人間がわたしと同じ方向に歩くようになれば、わたしはかれをトバッと呼んで
かれをkamiの区分に入れる。

規準になるのはakuである。なぜならわたしの宗教こそが真理なのであり、わたしの宗教
から去って行く者はムルタッなのだ。反対にわたしの宗教に加わって来る者はトバッなの
である。ムルタッは誤謬を吹き込まれて迷った結末であり、トバッは悟りを開いた結果だ。
ムルタッ者は邪悪な背信者であり、トバッ者は従順なる敬神者である。

トバッはムルタッの反対語である以上に、もっと広い意味を持っている。正しいわたしの
宗教に身をひるがえして入って来るのは善いことであるため、悪行から離れて善行に移る
こと、つまり自分の非を悟り、覚醒することの意味を持つ。


ムルタッも宗教の枠外で使われることがある。伝統・習慣・慣習に背を向けることはもち
ろん起こりうる。面白いのは、背を向けた人間が他人を苦しめたり損をさせたりしなかっ
たときに、この言葉がはじめて使われることだ。他人の生命や財産を奪った人間はムルタ
ッなのか?かれは人殺しや強盗と呼ばれ、それにもとづいて罰を受ける。そうでなくて、
悪事をおこなったり他人を使嗾して悪事を行わせたりしていないけれど、所属集団の信仰
を裏切ったと判定された人間にムルタッの烙印が捺されるのである。社会交際から除け者
にする罰にはじまって果ては地上から消滅させるに至るさまざまな方法を使って裏切者を
痛めつけるための理由を設けるのがその目的だ。

ムルタッした人間は普通、成熟した自由独立者が自分の考えに従って宗教を移ったとは見
なされず、pemurtadanを被った人間と位置付けられる。プムルタダンのコンセプトはきわ
めて自衛的で特殊なものだ。たとえば英語の場合、ギリシャ語/ラテン語のapostasia
(避けること)に由来するapostasyにプムルタダンの語義はなく、apostatizingが時おり
プムルタダンと訳される。しかしその翻訳は不正確である。なぜならアポスタタイジング
は自らを避けせしめる、あるいはmemurtadkan diri sendiriを意味しており、他人をムル
タッさせる意味は持っていないのだから。


他人に宗教を広めるのはして良いことか、という問題がよく議論の種になる。基本的には、
わたしの集団が外のだれかをトバッさせたい場合は良いが、他の集団がわたしの集団の誰
かをムルタッさせたい場合は禁止する、というのが常識的な答えになるだろう。

そこには人権に関するもっと根本的な疑問がほのめいている。精神の健全な自由独立した
一個の人間が自分の希望と選択に従ってムルタッやトバッすることがどうしていけないの
かという疑問だ。叡智を備えたひとりのおとなの信仰心をなぜ、その両親が、コミュニテ
ィが、監視し補導しなければならないのか?ましてや、それを命がけのことがらにする者
がいるなんて。