「聖書の奇妙な語句」(2022年03月10日)

ライター: 言語教育学修士、ムリヨ・スニョト
ソース: 2012年5月4日付けコンパス紙 "Saudara yang Kekasih"

たとえそれが日常生活の中に溶け込んでしまったために奇妙な印象が薄らいだものであっ
ても、たいていわたしはいつも、それに強い違和感を覚える。キリスト教徒世界の常套句
になったsaudara yang kekasihは明らかにインドネシア語の法則と慣用から逸脱している。
慣用的に使われているのは、saudara yang baik/mulia/tercinta/terpujiなどと同類の
saudara yang terkasihである。

この不自然な語句はあたかも、この地上にいる人類の三分の一である20億人が信仰して
いるキリスト教システムの中の不自然さを更に高め、それどころか不自然さをまとめ上げ
ているようにわたしには思われるのである。20億人というのはwiki.answers.comの推定
値だ。

キリスト教は不自然か?もちろんそうだ、と濁りのない文章を書くアンダル・イスマイル
牧師は述べている。不自然さは聖書の至るところに散りばめられている。

言うまでもなく、saudara yang kekasihという語句の言語面での不自然さの度合いを、キ
リスト教神学の叙述構成の中にある不自然さと対比させたり関連付けたりする必要はない。
その両者は同等のものでないのだから。前者は聖書翻訳チームの頭の中から生まれたもの
であり、後者は神の創造が生んだものなのである。


聖書翻訳チームはsaudara yang terkasihの代わりにsaudara yang kekasihを決定項に定
める中で、きっと激しい議論を行ったことだろう。その選択は標準インドネシア語を推し
たひとびとに対する罪悪感を抱えながら行われたかもしれない。だがもはや、それはどう
しようもないものになった。その語句は文法的に、yang dikasihiNya(神に愛されしとこ
ろの)の意味を伝えきれていないように思われる。

saudara yang terkasih, saudara yang tercintaはその語句の話者にとってyang paling 
dikasihi, yang paling dicintaiの意味を表している。数百数千のひとびとを前にして選
挙運動中の政治家が連発するような世辞表現の濃い匂いがその表現から立ち昇って来るの
である。そこが問題なのだ。あるひとりの最も愛されている人間に対して適切な語句を数
百人に向けて放つことがどうやって起こりうるのか?セマンティクスの面から、このグラ
マティカルな語句は受け入れることが困難なのである。

シンタックスの法則を超越した語句saudaya yang kekasihは、文法的形式と消去部分の存
在というアイデアで構成されたものと解釈することもできる。その語句はsaudara yang 
adalah kekasihNyaのエリプシスのひとつであるという理解だ。あるいはまた、こんな解
釈も成り立つだろう。この句にある名詞kekasihは実際のところ形容詞として使われてい
るのであり、yang dikasihi Tuhanというのが意味するところなのである。


言語進化論者が常識的に発する質問:インドネシアバイブル協会がインドネシア語版新約
聖書の中でオーソライズしたその語句は聖職者たちの説教の中で普通に使われているだろ
うか?Pelita Kasih FMラジオで語られている牧師たちの言葉を参照するなら、上の問い
に対する答えは「使われている」だ。ただし、常に全員が、ではないのである。saudara 
yang terkasihの言葉がひとりふたりの口をついて出て来る。聖書よりもインドネシア語
標準文法の書により忠誠を尽くしている牧師がだれなのかはよく分からない。確実に言え
ることは、たくさんの書物を刊行しているエカ・ダルマプトラ牧師の言う「精神の大海の
氷を打ち砕く鋭い斧のように」、その不自然な語句は多くの文書の中に散乱しているので
ある。