「和に至ることと血の代償」(2022年03月11日) ライター: 語義オブザーバー、サムスディン・ブルリアン ソース: 2011年12月23日付けコンパス紙 "Damai" 「地球に平和を」と全世界の何百万人ものひとたちが叫び唄う月がまた巡ってきた。地球 の至るところに混乱と紛争が満ちあふれているのをわれわれは目にしていても、そして実 際に人類は5千年前の歴史の最初から今日まで戦争と暴力に覆われているのだが、たいて いわれわれはそれが異常な状態であり、平和がノーマルなものだと考えている。 もちろん平和あるいは平安というのは、騒動や戦争のようなもののないことが意味の中心 をなしている。そのため平安とは静謐で注意をひくものごとが起こらない状態をも意味す る。昔のたくさんのひとびとにとって、取り立てて何も注意をひくものごとの起こらない 状態こそが理想だったようだ。というのも、注意をひくものごとは戦時下に起こるのであ り、それが物語・叙事詩・言い伝えなどの元になったのだから。 アラブ語やヘブライ語を含むセム系言語の中にsalamやshalomなどの言葉があり、ネガテ ィブな意味では戦争がないこと、ポジティブな意味では生活のあらゆる需要が満たされ、 福利・自由・幸福に包まれた状態を指して使われる。AssalamualaikumもShalom Aleikhem も出会ったひとの平安と安寧を祈るあいさつである。その両民族がお互いに平安のサラ〜 ムを述べ合うことが困難になっている現状は皮肉なことだ。 キリスト教神学の世界で平安とは贖罪atonementのことであり、キリストを通して神が与 えた和解を意味している。そのキリストが地上に来訪したことが今月祝われるのである。 at-one-ment(ひとつになること)はキリストが、罪のゆえに離れてしまった人間と神の 関係を一体のものに復元したことを示している。 インドネシア独特の和解の呼び掛けは「問題の核心を忘れましょう」という意味になって いる。要するに関係諸方面が握手し合い、騒ぐのをやめ、あたかも問題など何も起こらな かったかのように暮らすのを合意することだ。 南アフリカでアパルトヘイトの災禍は真実和解コミッションが解決した。世界はその国の 国民と偉大な指導者、復讐を拒否し、同時に忘れたふりをすることに反対して真実と心か らの赦しを語るという模範を示したネルソン・マンデラ大統領とデズモンド・トゥトゥ大 主教に債務を負った。それがその国に恒久的平安をもたらした正義の一形態だった。 インドネシアではその反対に、スハルトの支配権掌握過程での数年間やその失脚時、ティ モールレステ占領期、そして今パプアで起こっていることがらなどのこれまでに起こった あらゆる暴力と殺人に顔の両眼と心の目を閉じることが選択されている。一部のひとは権 力中枢にいる期間だけ、真実に欠けた短期的な和解のみを望んで来た。歴史の真実に目を ふさぐ民族は歴史の誤りを繰り返し続ける。 多分このクリスマスが持っている趣旨に即してキリスト教徒は、ヌサンタラの平安という テーマに関して、人間の罪を真実として受け止め、自らの血をもって贖罪を果たしたキリ ストの模範を宣言することで貢献が行えるだろう。キリストが平和の王と呼ばれるのは、 それが理由なのである。