「イ_アのアラブ語メディア(1)」(2022年03月15日)

VOC時代にバタヴィアでAl-Juabという新聞が発行されていた。1795年に始められ
て、1801年まで6年間続いた。多分これがインドネシアのプリブミ向けに出た最初の
新聞ではないだろうか。発行者はアラブ系プラナカンで、イスラム布教者でもあった。だ
から記事内容がニュースよりもイスラム教の話により多く傾いていたのは当然だったと言
える。

新聞の記事を書くのに使われた言語はアラブ語でなくてムラユ語だったが、文字はアラブ
文字が使われた。17世紀以来、インドネシアでイスラム教は大いに発展し、アラブ世界
からもたらされたアラブ文字の文書から文字を学んだムラユ人が、ムラユ語音韻構造に合
わせて変化させたaksara Arab Jawiと呼ばれるアラブ文字の表記法を使ってムラユ語の文
章を書くようになった。このジャウィ式アラブ文字はhuruf Arab-Melayuあるいはhuruf 
Arab gundulとも呼ばれている。

この習慣はイギリス領であるシンガポールやマラヤ半島にも伝わり、ムラユ人はどこに住
んでいようがムラユ語を書くのにたいていジャウィアラブ文字を使っていた。それは更に
広がって、ジャワ人はジャワ語を、スンダ人はスンダ語を、別の種族も自分の言語を書く
のにこの文字を使った。


ムラユ人がラテン文字を使ってムラユ語を書くように変化し始めたのは1872年のこと
だ。それまでプリブミが土着原語を書くのにジャウィアラブ文字を使っていたために、植
民地政庁は発行した通貨の裏側の表記にその文字を使った。19世紀後半の半ばを過ぎる
ころまで、プリブミはほとんどラテン文字の読み書きができなかったが、ジャウィアラブ
文字を読むことのできるひとは少なくなかった。

華人系プラナカンにとっても、ムラユ語の環境はプリブミと似たようなものだった。つま
り地名を漢字で書くくらいのことはできても、ムラユ語文章を漢字で音写するには標準化
が必要になるから、だれもがプリブミの使っているアラブ文字を使って表記していたとい
うことだ。

1858年にSoerat Kabar Betawiという新聞が毎週土曜日に発行され、華人系プラナカ
ンを含むたくさんのプリブミ読者がそれを読んだ。新聞はラテン文字とジャウィアラブ文
字を使って書かれた。新聞の性格は商業新聞だったものの、千一夜物語のような誰にでも
受ける内容の記事が頻繁に登場した。

華人系プラナカンはムラユ語の読み書きにジャウィアラブ文字を使っていたが、19世紀
後半の中盤ごろになるとジャウィアラブ文字の読み書きができる者はたいへん少なくなり、
かれらの大多数はオランダ人からラテン文字の読み書きを習って、それでムラユ語の読み
書きをするように変化した。ラテン文字でムラユ語の文章を書いた華人ムラユ文学が盛ん
になっていったのはそんな時期だった。


19世紀後半になるとハドラマウトからのアラブ人移住者が増加した。特に1870年か
らのヨーロッパと極東を結ぶ蒸気船の運行がハドラミHadrami(ハドラマウト人、複数形
はHadarem)の東方への移住を容易にした。インドネシアのアラブ系プラナカンの大半は
ハドラミの子孫だと言われている。1901年にかれらはバタヴィアに種族団体Jamiatul 
Kheirを発足させ、後に団体付属の教育機関を興している。

民族運動の名士HOSチョクロアミノトやKHアッマッ・ダッランなどの支援を得たジャ
ミアトゥルケイルは中東から新聞を輸入して販売し、またインドネシアでのイスラム運動
をバックアップした。雑誌Al-Manarはインドネシアにおけるイスラム運動についての情報
をジャミアトルケイルから得ていた。[ 続く ]