「イ_アのアラブ語メディア(2)」(2022年03月16日)

1922年から26年まで、スラバヤで毎週木曜日にハドラマウトというタイトルのアラ
ブ語週刊誌が20ページの厚さで発行された。この雑誌の発行者はハドラマウトのタリム
出身者イドルス・ビン・ウマル・アルマスフルであり、編集者はボゴールのアルイッヤ私
立教育機関を興した著名なウラマ、KHアブドゥラ・ビン・ヌ−だった。後になって編集
者は、インドネシアへのイスラム渡来に関する論文を書いてそれが定説化したジア・シャ
ハブに交代した。

この週刊誌はオランダ植民地政庁の方針の先行きを読みながら発行され、記事内容は多種
多彩で、政治・社会・文化から宗教までカバーしていた。この雑誌はインドネシア国立公
文書館に保存されている。

中東で著名な文学者兼歴史家のアミル・シャキブ・アルサラムは、雑誌「ハドラマウト」
に書かれた文章が持つアラブ語文法の美麗さを絶賛した。雑誌ハドラマウトにはアラブ諸
国を除く世界で最高のアラブ語が使われている、というのがアミルのコメントだった。雑
誌発行者イドルス・ビン・ウマルは1926年のナフダトゥルウラマ結成に参画し、積極
的な活動を行っている。


そのころバタヴィアで、Sムハンマッ・ビン・ヤッヤがアラブ語新聞Bir Hoedを発行した。
ハドラマウトにある預言者Nabi Hudの墓地に近い湖の名前フッ湖にちなんでその新聞が命
名されている。

バタヴィアではまた、アッマッ・ビン・アブドゥラ・アサガフが雑誌As Somilを発行した。
かれはクウィタン私立教育機関を興したハビブ・アル・ハブシの女婿であり、また193
4年に政党インドネシアアラブ党を発足させたアブドゥラッマン・バスウェダンの同志で
もある。スカルノのオルラレジームで情報副大臣を務めたこのバスウェダン氏の孫が現ジ
ャカルタ都知事アニス・バスウェダンや、かつてKPK捜査官になったノヴェル・バスウ
ェダンたちだ。


アラブ語雑誌Borobudurも、MOハシミを編集長にしてバタヴィアで発行され、この雑誌
はヴェルテフレーデンのパサルバルオースト(現在のJl Pasar Baru Timur)を住所にし
た。雑誌の資金は発行者のサイッ・アブドゥラ・ビン・アルウィ・アラタスが負担した。

HOSチョクロアミノト、KHアッマッ・ダッラン、Hアグッ・サリムたちと親しかった
サイッは、シャリカッイスラム活動資金のためにチョクロアミノトに6万フルデンを寄贈
している。そのころ100フルデンあればバタヴィアで家を一軒持つことができたそうだ。
チョクロアミノトはその資金の一部で日刊紙Utusan Hindiaを発行した。

サイッ・アブドゥラはまたムハマディヤに対しても、オランダ植民地政庁の学校教育と肩
を並べうるレベルの教育をヌサンタラに打ち立てるための資金を寄贈しているし、アルイ
ルシャッなど当時のイスラム諸団体にも多大の支援を与えた。アリ・アラタス元外相の祖
父であるサイッ・アブドゥラは息子たちをトルコに送って教育を受けさせている。

その当時サイッ・アブドゥラが住んでいた大邸宅を見れば、その財力が想像できるだろう。
中央ジャカルタ市ジャティプタンブラン通りにあったかれの邸宅は現在、繊維博物館の建
物に使われている。かれはまた、画家ラデン・サレが宮殿を建てた広大なチキニの土地を
買い取って首都のど真ん中に19Haの土地を持つ地主になっていた時期がある。その土
地はチキニラヤ通りのMuseum Joang 45の脇にあるKali Pasirからラデンサレ通りに至り、
更にチリウン川岸にまで達する広大な土地だった。

ラデン・サレの宮殿はその後オランダのエンマ女王財団が買取を申し入れて、10万フル
デンの価格で合意した。ところがエンマ財団がそこを病院にする計画であることを知った
サイッ・アブドゥラは、気前よく半額にして売却したそうだ。そこは1949年末まで病
院として活動していたが、インドネシア完全独立承認が確定したあと、エンマ財団はそこ
をインドネシアキリスト教団に譲渡した。[ 続く ]