「イ_アのアラブ語メディア(終)」(2022年03月17日)

ラビタンアラウィヤと同じように、アルイルシャッもアラブ語の雑誌をたくさん発行した。
イドルス・ビン・ウマルのひ孫であるエドルス・マスフルの語るところによれば、雑誌ハ
ドラマウトはインドネシアだけでなく、中東・トルコ・シンガポールにまで流通したそう
だ。そのころはアラブ語とアラブ文字が現在よりもっと世の中で通用していたようだ。オ
ルバ期のインドネシアでさえアラブ文字が読めると便利さが違ってくると言う日本人がい
たが、1970年代前半のジャカルタはそんな様相を既に過去のものにしていた。


かつて数十件を数えたアラブ語印刷メディアはムスリムに関係する情報を優先的に取り上
げた。ヌサンタラの中だけでなく、幅広くイスラム世界におけるニュースを掲載したのは
パンイスラミズム思想に由来したものだったのではあるまいか。

そのクライマックスが1911年に起こったイタリア=トルコ戦争だろう。イタリアがリ
ビアに軍事侵攻を行った際のトリポリの戦いでイスラム戦士にたくさんの死者が出たこと
がイスラム世界を憤慨させた。この戦争によって名をあげた英雄オマル・アルムフタルは
砂漠のライオンの異名を与えられ、1981年に米国で作成された映画の主役になった。

植民地下のオランダ領東インドで、ムスリム層は反イタリアの機運に沸き立った。ハビブ
・アリ・クウィタンはバタビアのモスクでイタリア批判の火の出るようなスピーチを行っ
た。Hアグッ・サリム率いるシャリカッイスラムの幹部たちは民衆にイタリア製品ボイコ
ットを呼びかけ、その結果、当時東インドの四輪自動車市場でマーケットリーダーだった
フィアットが大打撃を受けた。


1882年にハドラマウトで生まれたアッマッ・ビン・アブドゥラ・アサガフはアラブ語
印刷メディアの論客となって、植民地政庁への批判をたくさん書いた。かれはまた、アラ
ブ語で小説を書き、ニ十冊近い作品を世に送った。

かれは著作活動の中でヌサンタラの各地を訪問し、各地の著名人・歴史家・ウラマたちか
らさまざまな情報を集めた。かれの作品の中にバンテンのイスラム史の詳細を記したAl-
Islam fi Bantenがある。また、インドネシア語訳が出されたかれの作品としてはFatat 
Garut(ガルッ娘)がある。これは20世紀初めの東インドのマルチエスニック社会の暮
らしを描いたロマンだ。

教育者としてのかれは、マドラサを各地に開いた。スラバヤのアルハイリヤ、ソロのアル
イスラミヤ、そしてかれ自身もジャミアトゥルケイルのマドラサで教鞭を執った。マドラ
サ「ジャミアトゥルケイル」は今もタナアバンで活動を継続している。

インドネシアに移住して40年間の人生を過ごしたアッマッは、1950年に生まれ故郷
を目指してインドネシアを去った。かれの乗った船がまだジャワ海を航行中に、この偉大
なる人物が神に召されたニュースがインドネシアのイスラム社会を驚かせた。かれはジャ
ワ海を自分の墓所にした。

インドネシアのアラブ語印刷メディアはその歴史のはじめから数えて数十件に上ったが、
今日まで生き延びているものはひとつもない。[ 完 ]